脳内交響曲

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21 2017

死の恐怖を克服する方法:自分が正しいと信じる生き方を貫く

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死は全ての人にとって切実な問題であり続けてきたし、これからもあり続けるだろう。
人が存在し続ける限り、死は未来に必ず起きる事態であり、また全ての人にとって有害なものでありうる。
死はあくまで観念的なものにすぎないと強引に考えることもできよう。
だが仮にこれを幻想だと思い込もうとしても、現に周りの人が次から次へと死んでいっている以上、恐怖は払しょくしがたいものがある。

では、我々にとって死はなぜ恐ろしいのか。
我々が死を害悪と見做のは、結局のところ次のような理由によってである。
例えば、20年の人生幸福に生きた人物と80年の人生幸福に生きた人物がいたとしよう。
このようなケースで我々が前者を不幸であるとみなすのは、その人物が生きた期間が十分ではないからである。
つまり、生きた期間が短くなってしまうからこそ、死は我々にとって恐ろしいというわけだ。

では、死の恐怖・害悪を克服するにはどうすればよいのだろうか。
この問いに対する答えは様々なものがあるだろう。
ただ最近私は、人が死の恐怖・害悪を克服するには、「人生における全期間において、自分が正しいと思う生き方をつらぬくしかない」と考えるようになった。



上でも述べたように死は人生の長さを損ねるものではあるだろう。
だが、人生の価値とは長さで決まるのだろうか?
いやそうではない。
仮に長生きだとしても、その人生が善いものでなかったとしたら、一体長生きできたところで何だというのか。
仮に長生き出来なかったとしても、自分の信念を貫ければ人は無条件に幸福だし、また長生きであったとしても自分の信念を貫けなければ無条件に不幸であるに違いない。

私は人生の価値を決めるのは長さではなく質のみだと思う。
多くの人は80年の人生に比べ、20年しかなかった人生を不幸であると判断するだろう。
だが、たとえ20年で終わってしまったとしても、もし自分の信念を貫いた善い人生を歩んでいたならば、その人は不幸ではないと思う。

生きていればできる様々なことも、一度死んでしまえば決してできなくなってしまうののだから、死は悪に決まっていると考える人ももちろんいるだろう。
或いは、自分の信念を貫くには、幸福に生きるには人生の期間がそれなりになくてはならない、と考える人もいるかもしれない。
だが、死によって人生が短く終わってしまったとしても、その死によって人生が不幸なものであったということにはならない。
2個のおいしいビスケットが1個のおいしいビスケットよりも仮に優れていたとしても、1個のおいしいビスケットが善いものであることには変わりない。
人生も同じことだ。
善い人生を歩んでいる人には、たとえ死であっても損害を与えることは出来ないし、また彼を不幸にすることもできない。
仮に20年で終わってしまったとしても、幸福な人生を歩んでいたならば、我々は彼(彼女)が不幸であると決してみなすべきではない。
なぜなら、彼(彼女)の人生はあくまで善いものだったのだから。



だから改めて言うが、もし死の恐怖を克服するにはやはり自分の信念を徹底して貫いて、幸福に生き切るしかないと私は思う。
こういうのは死の恐怖を克服する方法としては、一見陳腐なものではあるのかもしれない。
だが、何周も遠回りしてたどり着いたこの方法は、不思議なことに私に大変よく馴染むのである。
もちろん死を全面的に無害であるとまだ見なせるようになったわけではない。
だがこの方法を実践すれば、死の恐怖は完全に克服できるのではないか、と最近ふと思うようになった。
(もちろん、自分の信念を常に貫くというのは容易なことではないとも思うが。)

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