脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

死とは何か、人は死ぬとどうなるのか

2016年05月12日 23:07  死後の世界について  

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普段は忘却しているものの、は誰にとっても切実な問題であり、第一級の関心ごとであるかと思います。
では、人はぬとどうなってしまうのでしょうか。
は我々にとって恐ろしいことなのでしょうか。

こういった問いに答える前にまず、我々にはしておかねばならないことがあります。
それは、がどういう事態であるのかについて定義をすることです。

は経験不可能であるがゆえに(或いは、まだ誰もんでいないために)、人によってさまざまに解釈が分かれます。
そのため、仮に上記のような問いに答える場合、我々は問いに答える前に、まず死の意味を明確に定義しておかなければ、議論になりません。
よって、本記事では「死がどういった事態であるのか」について、私なりに答えを出してみようと思います。



さて、「死はどういった事態であるのか」という問いに対して、考えられる回答をまずは提示しておきましょう。
この問いに対する回答は、大きく二種類に分けることが出来ます。
一つは(A)「人は死によって主観的な体験を失わない」とするもの、そしてもう一つは(B)「人は死によって一切の主観的な体験を不可逆的に失う」とするものの二つです。
おそらく、すべての死の解釈は、必ず(A)か(B)のうちのどちらかに含まれるでしょう。

これら両者のうち、どちらが正しいと考えるかは、個人の死生観によるところが大きいです。
例えば、死後の復活を信じる人や輪廻転生を信じる人、或いは霊魂の存在を信じる人などは、(A)を正しいと見做すでしょう。
或いは、(A)と(B)のいずれも支持せず、どっちつかずの立場を貫く人もいるかもしれません。

死後の世界があるとする解釈のそれぞれを細かく検討すると、記事の長さが長大になるため、この点について私は本記事で語ることはしません。
(興味がある人は、この点について論じられている他サイトをご覧ください。)
ただ、私は死の価値を見定める上で、(B)を正しいものとするのが妥当だと思います。

この私の判断を動機づけているのは、我々の認識が決して恒常的なものではないという事実です。
仮に我々が過去の全期間において主観的経験を保持し続けてきたのであれば、今後も同様の状態が続くと考えても、左程おかしくはないでしょう。
しかし、実際には我々の記憶はある一定の期間以上、すなわち生まれる前までは決して遡ることが出来ませんし、また我々は深い眠りについているときは一切何も経験することが出来ません。
この事実は、必ずしも死後に何もないことを証明するわけではありませんが、(B)の見解に有利に働くと思います。
少なくとも、我々が死後の世界を信じないことに一定の合理性は与えるでしょう。

もちろん、死後には何もないということを私が完全に証明することはできないのですが、上記の事実があることによって、死後の世界を信じる者と信じない者は決して対等ではないのです。
死後の世界の存在を主張する者は、それを否定する者とは違って具体的に証拠を提示しなければなりません。
そして、その証拠は何もないのだから、さしあたり(A)の解釈ではなく、(B)の解釈を正しいと見做すのが妥当でしょう。



また、死を定義する上でもう一つ前提としてつけ加えておきたいことは、「死者自身は死体とは同一ではない」ということです。
人が死ぬとその後には通常(死体が木っ端微塵にならない限り)死体が残り、それは往々にして生きている人物から配慮の対象とされます。
ですが、実際のところ、それは単なる人間以外の物体に過ぎず、死者自身ではありません。
死体は死者自身と外見は似通っていますが、死体は何ら普通の人のように価値観を有していませんし、また仮にある人の死体を傷つけたとしても、それは単に物体を破損させることにすぎず、死体はなんら利害が帰属する対象とはなりません。
そのため、我々は死体を死者自身と見做すべきではないでしょう。

以上を踏まえると、死の定義は次のようになります。
即ち、死とは「主観的には体験を不可逆に失うこと、そして客観的にはこの世界から存在しなくなること」です。
死について論じるうえで、このような定義を採用することが妥当だと私は考えます。

死は多くの場合、死後の世界が存在するという立場と死後の世界は存在しないという立場の対立という図式で論じられてきました。
しかし死を消滅ととらえ、そのうえでそれが悪であるかどうかを議論するほうが、少なくとも正しい知識をとらえるうえでは妥当な選択ではないでしょうか。



(補足)死は経験出来ないのだから、それについて何も語ることはできないのではないか、と考える人がいるかもしれません。
しかし、経験できるかどうかは、事態について語るうえで必ずしも必要ではないでしょう。
なぜなら、経験があるときに経験がないことについて語ることは、普通の人であれば誰だって可能だからです。
我々は一切経験のない睡眠や、誕生前の非存在について語ることができます。
この点を踏まえれば、死後の非存在が経験できないからと言って、それについて語ることはできない、と結論付けるのは明らかに誤りです。
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