脳内交響曲

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10 2015

無とは何か

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我々は、「人はんだあとになる」という表現を安易に口にしがちです。
しかし、というものの実態が掴めないまま、その言葉を使い続けるのはあまりにも虚しい。
なので今回は、いずれ誰もが至るであろうについて私見を書きます。



まずによって至るは二種類に分類できるかと思います。
一つは相対的な、そしてもう一つは絶対的なです。

相対的な無とは、以前は居た人が今では居なくなった、という比較によって見出すことのできる無です。
これについて想像するのは簡単でしょう。
例えば、私がある人と嘗て会話などのやり取りをすることが出来たのに、何らかのきっかけ(例えば、身体の破壊など)でそれらが永遠に出来なくなってしまったとします。
この場合、私が「彼はんだ」と見做すのは当然のことです。
そして、このときまだ有である私が、一方的に比較を行い、んだ相手に見出す状態が相対的な無です。

しかし、相対的な無は私がぬことによって至る状態である、とは言えません。
なぜなら、それは自分が生きているということを前提して成り立っている無だからです。
私のは一切の視点の抹消であり、もし「私が死んだ後に、死んだ私と生きている人々やり取りすることが出来ないという状況」を想定するとしたら、自分が生きていることになり、自分が死んでいるという前提と矛盾します。
よって、自分の視点が後に一切残らない、そのような無こそが、私が死ぬと至る無であると、そのように考えねばなりません。



つまり、我々は自分の死について考える場合、相対的な無ではなく、むしろ絶対的な無の方に関心を向けなければいけません。
絶対的な無とは私がいずれ必ず至るであろう主観的な状態としての無です。
即ち、一切の感覚や知覚がシャットアウトされ、意識を永遠に失った状態としての無です。

ただ、絶対的な無について考えると我々は大きな壁にぶつかってしまいます。
というのは、まだ我々は一度も死というものを経験したことがないからです。
憶測だけであれやこれや(例えば地獄に行く等)と語るのは、簡単です。
しかし実際のところ、経験してない物事について確実なことを語るのは容易ではありません。



私は正直のところ、絶対的な無について語ることは誰にも出来ないだろうと考えています。
なぜならそれは、私たちの言葉の世界の外にある「何か」だからです。
(いや、そもそも何かという言葉を使うのも不適切かもしれませんが)

私は以前、絶対的な無について様々な妄想をめぐらせていました。
例えば小さい頃、私は死が「何も見えない真っ暗な世界に永遠に投げ込まれるような状態である」と思い込んでいました。
もしそれが事実であれば死は確かに非常に怖いものであると言えます。

ですが、当然この死後観は誤りです。
なぜなら、真っ暗な世界があるという状態は、観測者の存在を無意識に前提しており、無ではなく紛れもなく有だからです。
我々は死んでしまったら、黒という色や黒を認識する意識すら喪失します。
そのため、死後の世界が暗いという思い込みは、間違った論証から生じた誤謬と言えるでしょう。
(例:眼を閉じると暗い+死んだ人は目が見えない→死後の世界は暗い)



また最近では、私は「死とは永遠の眠りのようなものである」という勘違いもしていました。
我々は睡眠時、夢でも見ていない限り、意識を完全に喪失しています。
そして、起きた後も寝ている間の記憶は全く残っていません。
なので、睡眠はまるで私たちにとって小さな死のようなものではないか、という考えを持つ人もいるでしょう。

しかし、死んだ人と眠っている人が全く同じ状態にあると見做すのは早計です。
両者は他者との疎通が出来ないので、一見に通っていますが、そのあり方は全く異なっています。
なぜなら、睡眠は脳がまだ活動している状態で、死は脳がもう完全に停止している状態だからです。
この点から、睡眠状態が絶対的無であると断言することは我々にはできません。



そこで私は、「もし脳が一度停止してその後回復するという経験が出来たら、絶対的な無について語ることが出来るかもしれない」とも考えました。
脳が一度停止してその後回復する経験とはつまり、いわゆる臨死体験のことです。
臨死体験をした人は、脳が一時的とはいえ停止しています。
なので、そのような人物ならば、絶対的な無について具体的に言い表せるのでは?と以前の私は思ったのです。

しかし完全な死は不可逆的なものであり、当たり前ですが、一度その状態に陥ったら戻ってくるということは出来ません。
臨死体験などは、戻ってくることが出来たという点で、厳密な意味での死ではありません。
戻ってきたら、その時点でもう体験は生の一部となり、死の体験であるということは出来ないのです。
また、もし仮に絶対的な無の経験について語ることができたとしても、その経験は無の経験ではなく、語った瞬間無という名の有の経験になってしまいます。



以上のような考察を経て、私は、絶対的な無について語ることは出来ないのではないか、と考えているわけです。
我々は現在、無について何かを思い浮かべることすら一切許されていない状況にあります。
なので、「私が死んだら無になる。」という言葉を安易に発することは控えるべきかもしれません。
なぜなら、「私が死んだら無になる。」と言ったところで、何か言ったような気になっているだけで、実際何も言えてないのですから。

「あなたは死んで無になった。」と言うことは、相対的な無についての言及であり可能です。
しかし、いずれ私が必ず至る絶対的な無は言及不可能です。
それについて我々に出来ることは、おそらく誤った思い込みを排除することだけでしょう。
これが私なりの今のところの死についての結論です。

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- 2 Comments

夏目  

no title

時たま覗かせてもらっています。

いつ見ても素晴らしいの一言では片付けられない作品ですね。
特にこの作品は個人的に一番好きです。
文字では表せない心に共鳴する感覚を感じました。

2015/07/18 (Sat) 14:33 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

夏目さんへ

> 時たま覗かせてもらっています。

こんにちは、今も見てくれていますか?
次から次へと消えていってしまう人がいるのであなたが心配です。

> いつ見ても素晴らしいの一言では片付けられない作品ですね。
> 特にこの作品は個人的に一番好きです。
> 文字では表せない心に共鳴する感覚を感じました。

そんな褒められると困惑します・・・。

2016/02/17 (Wed) 06:54 | EDIT | REPLY |   

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