脳内交響曲

ARTICLE PAGE

-- --

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
20 2015

人間を描かない理由

Space10.png

私は絵をしばしば描きますが、人間をあまり描きません。
描こうと思えば、以前は描いていたわけですから描けなくはないはずなのですが、やはり今人間の絵を描こうとするとどうしても抵抗を感じます。
これは何故なのか。
考えられる理由は二つあります。



まず一つ目の理由、それは「なぜ他のあらゆる人を差し置いて特定の個人を描かなければならないのか、全くわからないから」というものです。
この世には想像もできないくらい多くの種類の人がいますよね?
男性や女性、黒人や黄色人種や白色人種、美形や醜形・・・などなど。
そして、絵をを描く際はこれらからたった一つだけ選択しなければいけないのですが、これが私にとっては土台無理な話なのです。

何故無理なのか。
それは私が徹底して平等主義者だからです。
つまり、此の世のあらゆる人間に同じぐらいの価値しかないと私は考えています。
これは私の価値基準が虚無的だからなのですが、心の底から家族だろうと友人だろうと赤の他人だろうと皆同じぐらいの価値があるとしか考えられません。

そんな私が人間を一人選び取って描くと、どのような選択であれ、自らの信念に反してしまうのですよ。
例えば、長髪の人を描けば短髪の人を否定していることになる、と言った具合に。
何処かの人を立てれば、必ず何処かの人を貶すことになる。
他の人にとっては何でもないことでしょうが、これが私にとってはすごく嫌なことなのです。



まあ杞憂だというのは分かっているんですがね。
別に長髪の人を描いたからといって「短髪の人を否定している」と私を責める人は、そういないでしょう。(いたら相当やばい人です)
または白人を描いたからと言って、他の人種を否定していると私を責める人もそういないでしょう。

しかし、自分で特定の人物の絵を描いていると、すごい疑問を感じるんですよね。
「何故私はこの人物を描いているんだ?」
「結局自分の好みだからではないのか?即ち差別感情に基づいているのではないのか?」
「人間の内面を軽視しているのではないか?」
・・・こんな風に考えてしまうわけです。

そして実際、その想定可能な批判はどこまでも正しいからこそ私は悩み、最終的に人間を描かないという選択肢を選んでしまうのです。
徹底的に平等を重んじる私は、何故特定の個人を描くのかという問いに対して有効な回答を与えられません。
故に私は人間を描けないというのが理由の一点。



で、もう一つの人間が描けない理由、それは何故「人間」を描かなければいけないのかが全く分からないからです。
森羅万象には人間だけでなく夥しい数の生き物がいますよね?
哺乳類やら、木やら、昆虫やら、微生物やら、などなど・・・。
こういった状況において人間を積極的に絵のモチーフにする理由と言うのはあるのでしょうか?
私にはそのような理由は見当たらないように思います。

もっとも多くの人々は、自分が人間だから人間を描いていると答えるでしょう。
「人間なんだから人間を描くのは当然じゃん!」と。

しかし当然だからと言って、その行為を全面的に肯定してしまうのはいかがなものでしょうか?
人間の外見は人間がこうしようと思って決まったわけではなくで、偶然にこうなっているものにすぎません。
にもかかわらず、決められた運命に従って決められた人間を描くのってものすごい機械的じゃないでしょうか?

まあそれを言い出したら、人間の知性も人間が作ったわけではないので、絵を描くという行為自体も否定されかねませんが、少なくとも人間の外見に関してはこうあるべきという必然性はないわけですよ。
別に岩みたいな外見をした人間や、ヤカンの形をした人間だっていていいわけです。(どんな人間だ)
にもかかわらず、人間の外見をそのまんま描くというのは芸がなさすぎるでしょう。
もっと極限まで本来の形を歪めた作品があったっていいわけです。
むしろ、そういうものをつくった方が自由な雰囲気が感じられて開放的ではないでしょうか。



要するに、人間をそのままの形で描くというのは、もはや流れ作業のような気がするんですよね。
結局決められた仕事をこなしているだけではないかと。
流されていっているだけで全然能動的じゃないじゃないか、と。

「私はその決められた限界を超越できないのか?」
芸術はそのための手段では無かったのか?」
・・・そんなようなことを考えます。

で、そんな風に考えて人間を描くというのを拒絶する自分という存在が現時点でいるわけです。
まあ、この文章で私は必ずしも「人間を描いている人は能動的では無い!」、とか「人間を描くのをやめよう!」とか積極的に言いたいわけでは全くないのですけどね。
しかし以上の二つの理由から、やはり今のところ私に人間を描く理由と言うか、気概は余りなさそうです。

関連記事

モチーフ 芸術

- 11 Comments

kemo  

rot★

hello★
腐る=rotっていうらしいよ★
では/

2015/02/21 (Sat) 13:31 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

Re: rot★

kemoさんは教養のある方なんですね。
ほかのコメントでは古代中国にまで触れられてますし・・・。
個人的にkemoさんがどういう人なのかすごく気になります。

2015/02/24 (Tue) 03:41 | EDIT | REPLY |   

yuunagi2019  

no title

ごぶさたです、doom metalとか好きですか?

2015/06/07 (Sun) 13:01 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

yuunagi2019さんへ

> ごぶさたです、doom metalとか好きですか?

こんにちは、返信が遅くなってすいません。
ドゥームは実は結構苦手です。
でもたまに滅茶苦茶いい曲があって見逃せないジャンルですね。
My Dying BrideのThe Cry of Mankindとか好きです。

2016/01/02 (Sat) 02:19 | EDIT | REPLY |   

皓己  

やばいっす…最終的現在の結論における感情は違いますが、
考え方?考えた過程と結果が似てる気がします。
私はぶち丸さんと違って、人物を描くことに抵抗もなく、
人物として自分の好きなものを詰め込みますが
新たにキャラクターを生み出すのがとても不得意で。
私のただの人としての趣味を描いたなら似たような顔になるし、つまらない。
微細な違いが人々は楽しいのでしょうけどあたり抵抗があります。
あら?私も抵抗があるようですねw


あと平等主義という件。
「同じくらいの価値しかない」ではなく私は
「人は望めば限りなく平等を実現できる」という考え方ですけど。
この考え方の場合悪い点も魅力の一つになるので、
僕はつい殺人までには至りませんが人がしたがらないことを
率先してするところにも繋がる気がしました。今w


このことから、平等であるべきという基軸はありつつも、
常に善を選ぶ(悪の中でさえ善を見つける)私が特定の人物を描くときは、
新たに生み出すのは面倒だけど、
既にあるもののここが好きだ!と
夢中に相手に伝えたい?気持ちで描くのが楽しいです。
まあその場合、性癖や恋愛対象へのタイプを主張するようで
恥ずかしいので困るところもあります。
だから書けない分野はとことん心が許せません。
ですが描かなければならない(と思い込んでいた)ので
無理やり自分が書けるギリギリを模索していました…。
でもそうですね、特定人物ばかり描いていると他の子を好きと言った時
全然書いてないじゃないか!って
言われるのでそれが嫌で版権は疲れましたけど。
質量物量で愛の深さを勘違いされるのはね…
逆に描いているものに興味を持ってくれる人が、
次回もまたこの子を書きますよね!って期待されるのも違うし。
絵を描くには何故それが描きやすいかに愛が存在しない場合もあるのにね。(と現状は思っている)


あーモチーフかあ。
僕も最終的に脳に刺激を与えるのは形と色であるので
テーマにそってそれらを組み合わせることは好きだけど、
具象で描くとは自分の気持ちを表現するにはとても余分なものが多く、
それにとらわれて詰め込みたい愛情が疎かになる感じがしています。
例えば私は車を見る時色とカーブと直角に惹かれるのですが、
車を書く必要は無いと感じる感じ。
車を書いた方がもっと人には伝わるし描けるようになる努力を惜しみませんが、
そこに私の愛情100%よりは人に伝える為に必要な余分な材料が混じっています。


んー、自分が人間なんだから人間を書くのは当たり前と思っているのかなあ。
「あ、女の人だ、綺麗だなあ」と、
見て分かりやすい形状を閲覧者も書き手も選択しがちまたは需要があるので、
人の形をしていない物を描くと、
「ああこの人は自然が好きなのね、動物が好きなのね、
…え!?何これ!?何が書きたいの!?
理解できないから魅力も見当たらない!」って
所なんじゃないかなって思うんですよねえ。
その件については具象主義?の連れ合いにも尋ねたら
「俺は型にはまっていたいしそれが苦痛ではない。
勿論奇をてらいたい気持ちがあるがその型の中でしたい」って言ってました。
型からはみ出る表現が恐ろしいにも近いようでした。


私はまだデッサンや勉強が足りないので具象もかけるようになりたいし、
具象は抽象に必要であると考えるので今後も全方位に意識を向けますが、
今のところ私の書きたいものは俗に言う抽象画のようです…。
物をはっきりさせない意味で、ぶち丸さんも型にはめられたくないでしょうけど、現代アートや抽象画の部類にはいるのですかに?

アーティストは自らアーティストと名乗るものでなく、
人に認められてアーティストと呼ばれるように、
自信ももてず戸惑いもありますが、
現存する何かの名称を当てられることは、
自信がつくでなく私はそれではないな、と感じる、
すんなり世間を理解できない、もしくは自分の言葉で言い換えたい反発がまた、自己表現のタネに感じます。(私は。)



ぶち丸さんは何を描いているか自分で分からないとおっしゃっていましたけど、
「この作品に意味や意図や表現したい特定のモノではないけど、何かが作用してこの絵が浮かび上がってきた」って感じでないです??

僕は拙いなりにすごく考えて描くので、「私はここにこの色と形を置きたい、
それは確固たる自分の理由があって、
何に見えるかという客観視も考慮しながらも、
自分が納得する図案である」って感じで抽象画を描くんです。
感覚としては自己陶酔で、だけど自分に酔ってるというより、
目をつむって脳を開放し五感を研ぎ澄ませて第六感にし、
ぐちゃぐちゃにして好きなパズルを組み立てる感じ。
第六感なんて知りゃぁしませんけど、イメージイメージ。

こんな話したってね…うーん、だめだ、
書きたい気持ちと自分を自分が認めないと生まれないもやもやと、
持つ必要はないけど自信がないと表に出すこともできない、行動することもできない、もがき。
連れ合いに相談しても、「芸術家はそんなもんだ、
何の意見にも惑わされず突き進め」っていうのだ。
まず私が芸術家を目指すことになるような
考え方?表現をしているということを認めなければならない感じなだけで
おこがましくて、ああああああ!!

なぁんて現状ぶち丸さんしか思考の趣味友がいませんでしてね。失礼しました。
まだまだ勉強不足で、いや~そうじゃないんだよな~ってとこあったらお話してくだされ~。
そもそもぶち丸さん芸大とか行った方なのかな…だとしたら絵のあり方や歴史背景、現代の傾向などご存知でしょうね。あとはそれらに自分を照らし合わせていくっていうか。

2016/06/19 (Sun) 07:33 | EDIT | REPLY |   

皓己  

おお…最終的現在の結論における感情は違いますが、
考え方?考えた過程と結果が似てる気がします。
私はぶち丸さんと違って、人物を描くことに抵抗もなく、
人物として自分の好きなものを詰め込みますが
新たにキャラクターを生み出すのがとても不得意で。
私のただの人としての趣味を描いたなら似たような顔になるし、つまらない。
微細な違いが人々は楽しいのでしょうけどあたり抵抗があります。
あら?私も抵抗があるようですねw


あと平等主義という件。
「同じくらいの価値しかない」ではなく私は
「人は望めば限りなく平等を実現できる」という考え方ですけど。
この考え方の場合悪い点も魅力の一つになるので、
僕はつい殺人までには至りませんが人がしたがらないことを
率先してするところにも繋がる気がしました。今w


このことから、平等であるべきという基軸はありつつも、
常に善を選ぶ(悪の中でさえ善を見つける)私が特定の人物を描くときは、
新たに生み出すのは面倒だけど、
既にあるもののここが好きだ!と
夢中に相手に伝えたい?気持ちで描くのが楽しいです。
まあその場合、性癖や恋愛対象へのタイプを主張するようで
恥ずかしいので困るところもあります。
だから書けない分野はとことん心が許せません。
ですが描かなければならない(と思い込んでいた)ので
無理やり自分が書けるギリギリを模索していました…。
でもそうですね、特定人物ばかり描いていると他の子を好きと言った時
全然書いてないじゃないか!って
言われるのでそれが嫌で版権は疲れましたけど。
質量物量で愛の深さを勘違いされるのはね…
逆に描いているものに興味を持ってくれる人が、
次回もまたこの子を書きますよね!って期待されるのも違うし。
絵を描くには何故それが描きやすいかに愛が存在しない場合もあるのにね。(と現状は思っている)


あーモチーフかあ。
僕も最終的に脳に刺激を与えるのは形と色であるので
テーマにそってそれらを組み合わせることは好きだけど、
具象で描くとは自分の気持ちを表現するにはとても余分なものが多く、
それにとらわれて詰め込みたい愛情が疎かになる感じがしています。
例えば私は車を見る時色とカーブと直角に惹かれるのですが、
車を書く必要は無いと感じる感じ。
車を書いた方がもっと人には伝わるし描けるようになる努力を惜しみませんが、
そこに私の愛情100%よりは人に伝える為に必要な余分な材料が混じっています。


んー、自分が人間なんだから人間を書くのは当たり前と思っているのかなあ。
「あ、女の人だ、綺麗だなあ」と、
見て分かりやすい形状を閲覧者も書き手も選択しがちまたは需要があるので、
人の形をしていない物を描くと、
「ああこの人は自然が好きなのね、動物が好きなのね、
…え!?何これ!?何が書きたいの!?
理解できないから魅力も見当たらない!」って
所なんじゃないかなって思うんですよねえ。
その件については具象主義?の連れ合いにも尋ねたら
「俺は型にはまっていたいしそれが苦痛ではない。
勿論奇をてらいたい気持ちがあるがその型の中でしたい」って言ってました。
型からはみ出る表現が恐ろしいにも近いようでした。


私はまだデッサンや勉強が足りないので具象もかけるようになりたいし、
具象は抽象に必要であると考えるので今後も全方位に意識を向けますが、
今のところ私の書きたいものは俗に言う抽象画のようです…。
物をはっきりさせない意味で、ぶち丸さんも型にはめられたくないでしょうけど、現代アートや抽象画の部類にはいるのですかに?

アーティストは自らアーティストと名乗るものでなく、
人に認められてアーティストと呼ばれるように、
自信ももてず戸惑いもありますが、
現存する何かの名称を当てられることは、
自信がつくでなく私はそれではないな、と感じる、
すんなり世間を理解できない、もしくは自分の言葉で言い換えたい反発がまた、自己表現のタネに感じます。(私は。)



ぶち丸さんは何を描いているか自分で分からないとおっしゃっていましたけど、
「この作品に意味や意図や表現したい特定のモノではないけど、何かが作用してこの絵が浮かび上がってきた」って感じでないです??

僕は拙いなりにすごく考えて描くので、「私はここにこの色と形を置きたい、
それは確固たる自分の理由があって、
何に見えるかという客観視も考慮しながらも、
自分が納得する図案である」って感じで抽象画を描くんです。
感覚としては自己陶酔で、だけど自分に酔ってるというより、
目をつむって脳を開放し五感を研ぎ澄ませて第六感にし、
ぐちゃぐちゃにして好きなパズルを組み立てる感じ。
第六感なんて知りゃぁしませんけど、イメージイメージ。

こんな話したってね…うーん、だめだ、
書きたい気持ちと自分を自分が認めないと生まれないもやもやと、
持つ必要はないけど自信がないと表に出すこともできない、行動することもできない、もがき。
連れ合いに相談しても、「芸術家はそんなもんだ、
何の意見にも惑わされず突き進め」っていうのだ。
まず私が芸術家を目指すことになるような
考え方?表現をしているということを認めなければならない感じなだけで
おこがましくて、ああああああ!!

なぁんて現状ぶち丸さんしか思考の趣味友がいませんでしてね。失礼しました。
まだまだ勉強不足で、いや~そうじゃないんだよな~ってとこあったらお話してくだされ~。
そもそもぶち丸さん芸大とか行った方なのかな…だとしたら絵のあり方や歴史背景、現代の傾向などご存知でしょうね。あとはそれらに自分を照らし合わせていくっていうか。

2016/06/19 (Sun) 07:41 | EDIT | REPLY |   

皓己  

おお…最終的現在の結論における感情は違いますが、
考え方?考えた過程と結果が似てる気がします。
私はぶち丸さんと違って、人物を描くことに抵抗もなく、
人物として自分の好きなものを詰め込みますが
新たにキャラクターを生み出すのがとても不得意で。
私のただの人としての趣味を描いたなら似たような顔になるし、つまらない。
微細な違いが人々は楽しいのでしょうけどあたり抵抗があります。
あら?私も抵抗があるようですねw


あと平等主義という件。
「同じくらいの価値しかない」ではなく私は
「人は望めば限りなく平等を実現できる」という考え方ですけど。
この考え方の場合悪い点も魅力の一つになるので、
僕はつい殺傷までには至りませんが人がしたがらないことを
率先してするところにも繋がる気がしました。今w


このことから、平等であるべきという基軸はありつつも、
常に善を選ぶ(悪の中でさえ善を見つける)私が特定の人物を描くときは、
新たに生み出すのは面倒だけど、
既にあるもののここが好きだ!と
夢中に相手に伝えたい?気持ちで描くのが楽しいです。
まあその場合、性癖や恋愛対象へのタイプを主張するようで
恥ずかしいので困るところもあります。
だから書けない分野はとことん心が許せません。
ですが描かなければならない(と思い込んでいた)ので
無理やり自分が書けるギリギリを模索していました…。
でもそうですね、特定人物ばかり描いていると他の子を好きと言った時
全然書いてないじゃないか!って
言われるのでそれが嫌で版権は疲れましたけど。
質量物量で愛の深さを勘違いされるのはね…
逆に描いているものに興味を持ってくれる人が、
次回もまたこの子を書きますよね!って期待されるのも違うし。
絵を描くには何故それが描きやすいかに愛が存在しない場合もあるのにね。(と現状は思っている)


あーモチーフかあ。
僕も最終的に脳に刺激を与えるのは形と色であるので
テーマにそってそれらを組み合わせることは好きだけど、
具象で描くとは自分の気持ちを表現するにはとても余分なものが多く、
それにとらわれて詰め込みたい愛情が疎かになる感じがしています。
例えば私は車を見る時色とカーブと直角に惹かれるのですが、
車を書く必要は無いと感じる感じ。
車を書いた方がもっと人には伝わるし描けるようになる努力を惜しみませんが、
そこに私の愛情100%よりは人に伝える為に必要な余分な材料が混じっています。


んー、自分が人間なんだから人間を書くのは当たり前と思っているのかなあ。
「あ、女の人だ、綺麗だなあ」と、
見て分かりやすい形状を閲覧者も書き手も選択しがちまたは需要があるので、
人の形をしていない物を描くと、
「ああこの人は自然が好きなのね、動物が好きなのね、
…え!?何これ!?何が書きたいの!?
理解できないから魅力も見当たらない!」って
所なんじゃないかなって思うんですよねえ。
その件については具象主義?の連れ合いにも尋ねたら
「俺は型にはまっていたいしそれが苦痛ではない。
勿論奇をてらいたい気持ちがあるがその型の中でしたい」って言ってました。
型からはみ出る表現が恐ろしいにも近いようでした。


私はまだデッサンや勉強が足りないので具象もかけるようになりたいし、
具象は抽象に必要であると考えるので今後も全方位に意識を向けますが、
今のところ私の書きたいものは俗に言う抽象画のようです…。
物をはっきりさせない意味で、ぶち丸さんも型にはめられたくないでしょうけど、現代アートや抽象画の部類にはいるのですかに?

アーティストは自らアーティストと名乗るものでなく、
人に認められてアーティストと呼ばれるように、
自信ももてず戸惑いもありますが、
現存する何かの名称を当てられることは、
自信がつくでなく私はそれではないな、と感じる、
すんなり世間を理解できない、もしくは自分の言葉で言い換えたい反発がまた、自己表現のタネに感じます。(私は。)



ぶち丸さんは何を描いているか自分で分からないとおっしゃっていましたけど、
「この作品に意味や意図や表現したい特定のモノではないけど、何かが作用してこの絵が浮かび上がってきた」って感じでないです??

僕は拙いなりにすごく考えて描くので、「私はここにこの色と形を置きたい、
それは確固たる自分の理由があって、
何に見えるかという客観視も考慮しながらも、
自分が納得する図案である」って感じで抽象画を描くんです。
感覚としては自己陶酔で、だけど自分に酔ってるというより、
目をつむって脳を開放し五感を研ぎ澄ませて第六感にし、
ぐちゃぐちゃにして好きなパズルを組み立てる感じ。
第六感なんて知りゃぁしませんけど、イメージイメージ。

こんな話したってね…うーん、だめだ、
書きたい気持ちと自分を自分が認めないと生まれないもやもやと、
持つ必要はないけど自信がないと表に出すこともできない、行動することもできない、もがき。
連れ合いに相談しても、「芸術家はそんなもんだ、
何の意見にも惑わされず突き進め」っていうのだ。
まず私が芸術家を目指すことになるような
考え方?表現をしているということを認めなければならない感じなだけで
おこがましくて、ああああああ!!

なぁんて現状ぶち丸さんしか思考の趣味友がいませんでしてね。失礼しました。
まだまだ勉強不足で、いや~そうじゃないんだよな~ってとこあったらお話してくだされ~。
そもそもぶち丸さん芸大とか行った方なのかな…だとしたら絵のあり方や歴史背景、現代の傾向などご存知でしょうね。あとはそれらに自分を照らし合わせていくっていうか。

2016/06/19 (Sun) 07:43 | EDIT | REPLY |   

-  

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2016/06/19 (Sun) 07:44 | EDIT | REPLY |   

-  

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2016/06/19 (Sun) 07:47 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

皓己さんへ

著しく返信遅れてすみません・・・。
今更過ぎて本当に恐縮なのですが、とりあえずコメントの大意をくみ取って、大雑把に返信しようと思います。

さて、考え方、考えた過程と結果が似てるとのことですが、うーん、これはどうなんでしょう。
皓己さんと私の世界の見方とその見方の形成の仕方は、この文を読む限り、なかなか異なっているように感じます。

例えば私なんかは最近では徹底的に人間を描くことを避けるようにしています。
人間の身体、顔、顔のパーツ、腕、足・・・そういったものをできるだけ想起させないように、絵の中のモチーフは人間と全く関係ない物を選び抜いています。
これはある意味私の人間不信(人間嫌い)のなせる業です。

個人にとって他者と言うのはプレッシャーを与える存在です。
家族、友人、級友、教師、同僚、赤の他人・・・などなど。
こういった人々はわれわれに暗黙のうちに「ああしろ、こうしろ」という要求をしてきます。
このことが結構生涯を通して私の精神的負担になってるんですよね・・・。
きっとこういう要因もあって、人間不信に陥り、私は人間を描かなくなってしまったのかもしれません。

記事の内容を読むとまるで私が人間を愛しているかのように感じられるかもしれませんが、あくまでこれは私の心理の一面に過ぎません。
勿論人間に期待したい気持ちは山々なのですが、どうしても育った環境のせいで、人間不信的な価値観が生じてしまい、そのことによって、人間を描かないように目指してきてしまった、そう言う面もあるように感じます。

私が言う平等主義は、結局のところ、虚無主義の裏返しなのです。
人間は皆平等である、という表現は人間は皆価値がある、ということを意味しますが、同じように人間には皆価値が無い、と結論付けることもできますからね・・・。
平等を信じるということはある意味、人間の価値を全否定するということでもあります。

そのことを踏まえると、虚無主義の私と皓己さんの違いは、人間に対する思い入れの差、ということになってくるでしょう。
コメントを読んでも、作品を比べてみても、皓己さんの人間を描く熱意は、私のそれをはるかに凌駕しています。
私は人間であるにもかかわらず、なかなか人間を描く気にはなれないのです。
なので突き詰めて言えば、我々の考えは、その成立過程等も含めて、かなり異なっていると言えるでしょう。

あとそうですね、要素を抽出して抽象画を描くことについてですが、私は実のところ抽象画・具象画の区別は結構どうでもいいですね。
というのは、私にとって目指す絵画の方向性はすでにハッキリしているからです。

それは何かと言うと、即ち「暗い絵を描くということ」です。
ブログのトップにも書いてある通り、私は芸術を通して、この世界を暗黒につつみたい・・・という結構やばい思想を持っています。
そのために必要なことは暗い作品を量産して、他人の気分を滅入らせること。
なのでこの目標を達成できるなら、具象か?抽象か?というのは些細な問題で、いずれを選択しても(限りなく低い確率ですが)私は目的を実現し得るので、はっきりいってどちらでも良いのです。

まあ要するに、私は絵を描いて幸福を増すのではなく、不幸を増すことをめざしているということです。
「皆が暗い気分になる絵なら何でもいい・・・」
これが絵を描くときの私の思考回路です。

最も暗いだけでは誰も私の作品を見てはくれません。
なので、私は暗いだけでなく、その暗さに美も盛り込もうと努めています。
つまり皆きれいだなあ、と初めは純粋な気持ちで私の作品を見てくれるのですが、次第に気付かぬうちに心に闇を抱え込んでしまう・・・これを私は内心狙っているのです。

そしてこの私の思想こそ、まさに皓己さんの連れ合いの方がおっしゃる型の一つのあり方なのです。
実は私は中々この型が気に入っており、この型に永遠にはまっていたいと正直思っています。
まあ、これは余談なんですけれどね。

あと、ちなみに言っておくと私は芸大には臆病であるがゆえに行っておらず、独学で絵を学んだクチです。
昔は漫画家を目指していたので、芸大にはいかなくていいや~と軽々しく思っていたのですが、今では結構後悔してますね・・・。
行っておけば違う人生があったかもなあ・・・としばしば考えます。

2016/10/07 (Fri) 10:22 | EDIT | REPLY |   

-  

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2016/10/07 (Fri) 12:21 | EDIT | REPLY |   

Leave a comment

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。