脳内交響曲

ARTICLE PAGE

-- --

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
24 2014

死後の世界は存在しない

SL6.jpg

我々は様々な要因によって死を恐れる。
例えば、未来を奪われること、人生の目標を阻害されることなどは我々に死を恐れさせるには十分すぎる要因だろう。
あるいは愛する人々・慣れ親しんだ土地との永遠の別れという点から死を恐れる人もいるかもしれない。
(これに関しては私はそうでもないが)

そして、何よりも我々の恐怖を喚起するのは消滅してしまうという事実である。
生まれてから今までずっと存在してきたのに、不意に生を断たれることによって、誰しも最終的には必ず消滅しなければならない。
この事実はよくよく考えてみればぞっとするほど理不尽なことであり、多くの人が死を恐れるのは恐らくこれが原因であろう。

そして消滅としての死を恐れる人の中には死後の世界を信じる者もいる。
現代人は懐疑的なので、死後の世界を信じていないだろうと思っていたがどうやらそうでもないらしく、ここを見る限り死後の世界を信じる人は相当数いるようである。
我々の抱く死の恐怖は強固であるがゆえに、来世の魅力はそれだけ強いものがあるのだろう。

この消滅としての恐怖を完全に乗り越えるには「死後の世界」を全面的に信じ込むしかないのかもしれない。
我々は「死後の世界があるかないかはわからない!だから結論は出さないでおこう!」という不可知論的なアプローチをとることもできる。
だが、この方法では死が消滅である可能性を残してしまう以上、完全に恐怖を払しょくすることはできない。

もし死後の世界が存在することを確信すれば、仮にその世界がどのような世界であれ、少なくとも死に対して「消滅としての恐怖」を我々は感じなくなるだろう。

ただ私からすれば、死後の世界の物語はいずれも信じるに値しないくらい安っぽいものである。
そこで、この記事ではその点について簡易的に触れておきたいと思う。

まず死後の世界があると仮定してみよう。
そのとき、死後の世界の在り方には二つの種類があると考えられる。
一つは「現世でのあり方と同じあり方を来世でもする」(肉体として存在し続ける)というもの。
そしてもう一つは「現世でのあり方とは別の在り方を来世ではする」(例えば、として存在し続ける)というものだ。

前者の例として挙げられるのはキリスト教の復活・輪廻転生である。



キリスト教における復活

まずキリスト教の復活の方からふれるが、これは「一定の期間がたった後、これまで死んだ全ての人々が肉体を取り戻し復活する」という物語である。
この物語はいまだに多くの人に信じられており、多くの地域で土葬が行われ続けるのも、このような死後の世界の世界の存在が広く信じられているからである。

だが私からすれば、死後に肉体がもとに戻るというのは信じがたい。
例えば仮に肉体が死んだ後に復活するとして、その復活したときの状態はどのようなものなのだろうか?
死んだときの状態でそのまま復活するのだろうか?
それとも一番活力に満ち、健康的であった成人の頃の姿として復活するのだろうか?

もし、死んだときの状態のままで復活するとなると当然厄介な問題が生じるだろう。
人間は死ぬ際に誰もがぽっくりと奇麗なまま死ねるわけではなく、老いや病によって苦しみながら死ぬケースがほとんどである。
だから、仮に死んだときの状態のままで復活するとなると、世界はケガや病気を負った人だらけになって地獄と化してしまう。

そこで、キリスト教徒たちは、恐らく「人はみな健康的な状態で、そして一番活力に満ちた成人の頃の姿で復活する」と考えるだろう。
神様は善良で全知全能なのだから、そのようなことも当然なのだと彼らは信じ切るのだろう。

だが、仮に神が善良ならば、そもそも病や飢餓や老いや人間関係のしがらみ等のマイナスなものがこの世界に存在するはずがなかろう。
生前の世界ですら、神は我々が抱える不幸にまともに取り合ってくれないのである。
にもかかわらず、仮に神がいたとして、それがなぜ死後の世界を最も都合の良い形で用意してくれるというのだろうか?
もちろん、そんな保証はどこにもないのは明白である。

結局のところ死後の世界は事実として起こるものではなく、これは我々の願望のうちから生まれたファンタジーにすぎないのだ。
よって我々はいい加減、願望と現実を分けて考えるようにし、死後の復活などというくだらない幻想は唾棄すべきである。



・東洋哲学における輪廻転生

では一方で、輪廻転生はどうであろうか。
輪廻転生には恐らく様々なタイプが存在するだろう。
例えば「人間は死後に必ずまた人間として何度も生まれ変わる」と考えることも出来るし、
或いは、「何らかの要因(例えば善いことをすることや悪いことをするなど)によって人間になったり畜生に転落したりを繰り返す」と考えることも出来る。

もし輪廻転生が事実であれば、それは人によって善いものにも悪いものにもなりうるだろう。
例えば仮に不幸な人生を歩む人が来世で幸福な生を歩むことが出来るならば輪廻転生は望ましいものということになるし、
逆に不幸な生が回ってくるならば輪廻転生望ましくないものということになる。
ただ生が無限に繰り返されるのが難点で、この部分だけを踏まえると輪廻転生は実在すればあんまりうれしくないことと言えるだろうか。

しかし私からすれば、輪廻転生も死後の復活と同様に信じるに値しないものだ。
いや、というより輪廻転生はそもそも信じたとしても何の意味もない。

我々は人格の同一性を、ある種の傾向性(価値観)や身体の持続の観点から判断する。
例えば、ある人が同じ価値観を過去・現在・未来にわたって持ち続けているならば、我々は「過去のその人」と「現在のその人」と「未来のその人」を同一人物であると考えるだろう。
或いは、ある人が似たような特徴を持つ身体を過去・現在・未来にわたって持ち続けているならば、その場合も我々は「過去のその人」と「現在のその人」と「未来のその人」を同一人物であると考えるだろう。

だが仮に輪廻転生があったとして、死ぬ前の人物と生まれ変わった人物は同一人物であるといえるだろうか。
生まれ変わった人物がいたとしても、その人物は死んでしまった人物とは身体を構成する物質をまず間違いなく共有できていない。
そして、生まれ変わった人物と死んでしまった人物はまず間違いなく同じ価値観を共有できていない。
(人間から動物に生まれ変わった場合はなおさらだろう。)
にもかかわらず、なぜ生まれ変わった人物を死んでしまった人物と同一視することができるのだろうか。
結局のところ生まれ変わる前の彼自身は死んでしまったのと何の違いもないのではないか。

また、人が同一人物であり続けるためには過去を振り返ることが可能でなければならない。
もし仮に一切の記憶を失った私がいたとしたら、それは私と言えないだろう。

だが、我々は自分が生まれる前のことを振り返ることはできない。
来世の自分が今の自分と同一であるならば、その自分は今の自分の記憶を振り返ることができるだろう。
だが今の私が前世の記憶を振り返ることができないのに、来世の私のみが前世(私から見ると今世)の記憶を振り返ることができるのだろうか。
その想定は都合がよすぎるように私には感じられる。

よって、輪廻転生の観点から死後の世界を想定することは全く意味がないと言えるだろう。
仮に自分が生まれ変わったとしても、その生まれ変わりの自分は赤の他人であり、今の自分と何のかかわりもない。
「死後に生まれ変わる」という表現は実は何も指し示してはいないのである。
だから我々は「何度も生が繰り返される」という物語もいい加減捨て去るべきである。
結局のところ輪廻転生も死後の復活と同様、消滅を恐れる人間が生み出した壮大なファンタジーにすぎない。

以上を踏まえると、死後の復活・輪廻転生などにおける「死後に人は肉体として存在し続ける」というアイデアは間違いであるといえる。
では次に、「人は死後にとして存在し続ける」というアイデアに関してはどうか。



・霊霊界)の存在

このような主張はスピリチュアル・神秘主義の分野で顕著である。
として存在している状態がどういうものであるかについては意見は様々だが、概ねその状態は心地よいものと言われる。
すなわち、それ自体で完全な、何ら苦痛のない安らかな状態が生前にはあり、そして死後にもそれが待っているというわけだ。
知らない世界へ旅立つことに対する不安を除けば、この物語を信じることは我々に安心を与えてくれはするのかもしれない。

だが、この主張には二つの点で問題がある。
まず一つ目の問題点は「の状態がそれ自体で完全なものであるならば、なぜこの不完全な世界に落ちてくる必要があるのか」というものだ。
この世界には上でもふれたように、飢餓や貧困、災害、人間関係の辛いしがらみなど様々な不幸がある。
仮に恵まれているとしても人は誰しも煩悩を抱え欲求に振り回され続けなければならない。
これが一切の苦痛のない状態に比べて不幸なのは確かなのだが、しかし一体なぜ人はここにはやってくる必要があるのだろうか。
もし魂の状態が完全なものであるならば、別にこの世界になどやってこなくてもよかったではないか。

このように追及すると恐らく魂の存在を信じる者は「魂の修業のためにこの世に人はやってくるのだ」とか「使命があるのだ」とかいった回答をするだろう。
だがそうすると、魂の状態は現世での修行・使命の達成を必要としなければならないほど不完全であるということになる。
この点で彼らの主張は矛盾を抱えているじゃないか、と私は思うのだ。

そして、二つ目の問題点は魂の状態についての物語がご都合主義じみているということだ。
仮に魂が存在するとして、死後にその状態で我々が存続するとしてみよう。
そのとき我々は一体どのようなあり方をするのだろうか?
もっと厳密にいえば、知的能力はどれくらい保持されるのだろうか?

この問いに対して考えられる回答は四つである。
一つは①「人間の思考能力は死んだときの状態からそのまま引き継がれる」というもの。
一つは②「人間の思考能力は一番明晰な状態に戻り、それが持続する」というもの。
一つは③「人間の思考能力は無になり、代わりの何らかの能力を持つ」というもの。
そしてもう一つは③「人間の思考能力はいったんゼロに戻り、再び成長をし始める」というものだ。

もし①が正しいとすると、重度の認知症を患ったまま死んだ老人や精神に障害を負ったまま死んだ者には魂の状態は完全からは程遠いものとなるだろう。
②が正しいとすると、乳児や幼児のうちに死んだ者は結局明晰な思考を働かせることはできないことになる。
③・④が正しいとすると、人格が消滅しており、結局死と何ら変わりがない。
いずれにせよ、死後の魂の状態は我々にとって完全なものとは言い難いのではないか。



この二つの問題があることによって、私は死後に人が魂として存続するとは考えない。
そして以上の議論を踏まえると、死後の存続は、それが肉体としてのものであったとしても、或いは魂としてのものであったとしても全く信じるに値しないということになるだろう。

ここまで読んでもなお「それでも死後の世界を信じます」という人がいるかもしれない。
そういう人のことは私はもう知らない。「ああ、そうですか」と答えるだけである。
だが、自分に正直な人であれば、死後の世界が無いという実感は十分に持ったであろう。
勿論そういう人も、死の恐怖を抱けば簡単に手のひらを返して死後の世界を信じるほうに行ってしまうかもしれない。
だが個人的に、そういう人には「死後の世界を信じて恐怖を乗り越える道」ではなく、出来れば「死を消滅ととらえた上で恐怖を乗り越える道」を選んでもらいたいものである。
(この点については他の記事で触れる。)
関連記事

死後の世界 キリスト教 死後の復活 輪廻転生 霊界

- 4 Comments

花音  

こんにちは。

ぶち丸さん。

モーツアルトの「魔笛」を連想しました。
生と死の狭間で苦しんでいるのか
希望を持っているのか…白鳥しか分からない

斬新な絵画ですね。

2014/11/24 (Mon) 16:35 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

Re: こんにちは。

こんにちは花音さん、コメントありがとうございます。

https://www.youtube.com/watch?v=CA9WV90KOYM
この曲ですか?私の地味な絵に対して壮大すぎるような・・・。
でもこのようなすばらしい音楽を私の絵から思い浮かべていただいて光栄です。

基本的に新しいものを描こうとは思っていないです。
絵を描くということは私にとってただ漠然と行う作業に過ぎず、何も目的や意図はありません。

2014/11/25 (Tue) 03:54 | EDIT | REPLY |   

茶流  

おおお(^O^)

すごいすてき!すき!(´∀`)ノ

2014/11/26 (Wed) 14:30 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

Re: おおお(^O^)

こんにちは、茶流さん。コメントありがとうございます。
気に入っていただけて何よりです。

2014/11/26 (Wed) 15:18 | EDIT | REPLY |   

Leave a comment

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。