脳内交響曲

ARTICLE PAGE

03 2014

死の恐怖を克服する方法:死は人生を有意味にすると考える。

EmptinessPt15.jpg

自らが死ぬ、ということが果てしなく悪しき事態であると感じる人は多いでしょう。
ただ一方で、「死は人生を有意味にするうえで必要不可欠な善いものである」と考える人がいます。

これは恐らく不老不死のほうがよっぽど問題だ、という考えからでしょう。
仮に我々が不老不死であった時を想像してみてください。
その場合、我々は初めのうちは享楽にふけって生きるのかもしれませんが、やがてあらゆることに手を出し尽くして退屈に至るでしょう。
そして肉体的には死なないものの、精神的な死には至るでしょう。
だからこそ、有限でなければ人生は有意義なものにはならないのだ、と。こう主張する人がいるわけです。



確かに死は我々に生き方を変えさせる効果をもっていると言えるでしょう。
人は普通に平和に生きている限りでは、何ら切迫性をもちません。
しかし、いずれ終わりを迎えることを悟ると、相当数の人は「一度きりの、有限の人生なのにこのままでいいのだろうか」と生き方を変えるようになります。
例えば、ある人は「いつ死ぬのかわからないのだから、今のうちにやりたいことはやっておこう」といった具合に。
またある人は、「残される家族のために出来るだけの準備をしておこう」といった具合に。

こういう例は九死に一生を得た場合や周りの大切な人を失った場合などに顕著にみられます。
まあ重要なものの大切さは、失われた(或いは、失いそうになった)ことで初めて気づくようになるとも言いますし、彼らの態度変更は最もなものと言えるでしょう。

ただ、だからと言って死が善いことになるかというとそうでもありません。
実際無限に生きることが恐ろしいことだからと言って、別に死ぬことが良いことになるというわけではないでしょう。
無限に生き続けることが悪であると同時に、死も悪であると考えることは別に矛盾しません。
もし敵が自分が住む家を破壊したときに「家の大切さを気づかせてくれてありがとう!」と感謝したら、その人はただの大馬鹿者でしょう。

死は我々を限界づけ、未来を奪い去ってしまうものです。
だから、我々にとって依然としてこれは悪でしかありません。

そして、我々が一生懸命に生きる姿勢が必ずしも死によってのみ可能というのも疑問です。
実際、死なないとしても何らかの目的に向かって一生懸命努力するという姿勢を貫くことは可能です。
例えば、我々は過去には戻れないのだから一瞬一瞬を大切に生きようと考えることだってできなくはありません。
別に努力する動機付けはなにも死ばかりではないでしょう。
にもかかわらず、一体なぜ死をそんなに有難がったりすることができるというのでしょうか。

おまけに死それ自体は我々がどう生きるべきかについて何も教えてくれません。
仮に没主体的であったり、流行へ迎合しがちであったりといった意見堕落した生き方をしていたとしても、別に死がそういうことをするのをやめなよと言ってくるわけでもないでしょう。 
死を覚悟した後、同じような生き方を貫くのことが、だめだということにはなりません。
死を覚悟してなお「よし、このまま堕落して生きよう」と、こう考える人も当然いるわけです。



以上を踏まえると、死を有難がる理由は何処にもないように思われます。
それはただ、我々から未来を奪い去ってしまうだけで、何も与えてくれはしません。価値ゼロです。
むしろ死は人生の目標をことごとく打ち壊してしまうという点で、人のやる気を損ないかねないとすら言いうるでしょう。
死を覚悟すると人生は豊かになるといったような文句はしばしば耳にし、一見聞こえがよいものですが、我々はそれを斬って捨てるべきです。

死を覚悟することで死の恐怖は克服可能である、と考える人もいると思います。
しかし、もし死を克服しようとするのであれば、我々はそれを有難がるよりも、むしろ無視するような生き方を模索したほうがいいかもしれません。

関連記事

2 Comments

書記  

血の涙と干からびた地面や体表面の対比が素敵ですね。
流した涙も潤すには足らない絶望的な感じを覚えました。

2014/09/05 (Fri) 18:53 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

コメントありがとうございます。

血で地面を潤すというコンセプトは私の頭のなかにありませんでした。言われてみればそうですね。
新しい解釈の余地を与えて頂き感謝します。

2014/09/07 (Sun) 12:40 | EDIT | REPLY |   

Leave a comment