脳内交響曲

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19 2014

他人とは分かり合えない

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我々は普段、相手の気持ちを分かったような気になって生きています。
例えば、悲しんでいる人を見かけてその人を気遣ったり、殺人事件のニュースを見て被害者に同情したりなど、頻繁に他者の気持ちに対して共感をします。
これは、社会で生きていく上でごく当たり前のことです。
もしこれがなければ、社会はまず間違いなく崩壊するでしょう。

しかし、共感するということは本当に可能なのでしょうか?
相手が感じた痛みや、相手の感情を分かることなど可能なのでしょうか?
私にはどうも、不可能であるように思えてなりません。
つまり、他者への共感はすべて実は錯覚なのでは?という風に感じるのです。
それは以下の説明を読んでもらえれば、おおよそ分かっていただけるかと思います。



まず、他者と私はテレパシーでもない限り、感じているものを直接共有することは出来ません。
自分の情は自分しか感じ取ることはできませんし、また相手の情は相手しか感じ取ることができません。
だから、私は仮に他人に伝えたい気持ちがある場合、言語(身体言語を含む)を用いることによって何とかそれを伝えようとします。

しかし、どれだけ具体的に言い表そうと、私の情を伝えることなどできません。
なぜなら、言葉には私の情自体を指し示す機能が備わっていないからです。
言語は個人的なものでは無く、公共的なものでしかありません。
私の固有の情を指し示す言葉は、あらゆる言語に無いのです。

だから、私が情を他者に伝えるべく言語でいくら表現しようと、その心情は一般化されてしまいます。
私の固有の心情も、他者の心情も公共的な言語によって全てひとくくりにされてしまいます。
そして、私の思いはもう全く他者に伝わらなくなってしまうのです。

自らの心情から、他者の心情を想像することは出来ます。
この点から、大まかには分かるのではないか、と主張する呑気な人もいるかもしれません。
しかし、彼らは全く間違っています。
というのは、その想像はあくまで自分の心情に基づいた想像でしかなく、そこに他者の心情は全く含まれていないからです。
私の言葉を聞いた相手は、私の心情を分かったような気になることは出来ても、私の心情それ自体は全く把握できません。



・・・以上の理由で、私が他者と通じ合う手段など存在しないと言えるのです。
また他者の心が全く分からないということから、実は他人に心なんて無いのでは?と更に疑うこともできます。
もしこの世界が、一定の物理法則に基づいて成り立っているのであれば、心情を持たなくても、人間(というか身体)は心があるかのようにふるまうことも可能です。
その考えでいくと、「自分以外の人に実は心なんてないのでは・・・?」と疑うことも出来てしまいます。

ただこれは流石に極論(独我論)なので、私にしか心がないということは恐らくないでしょう。
しかし、心を持たない人が実は、世の中には結構ごろごろ存在してるかもしれません。
生まれつき身体や精神に障害がある方が、世の中には沢山います。
同様に「心がない」という障害を持っている人がいても、別に何らおかしいことでは無いのです。
だから、身近な人々がその障害を持っているということも、もしかしたらあるかもしれません。

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