脳内交響曲

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02 2010

無意味な称賛

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私の作品に「すごいですね」とか「きれいですね」とかいった感想をくれる方がたまにいます。
わざわざこんな辺境の果てのようなサイトに来てもらって、感想まで頂けるのは本当にありがたいことです。
また、褒めてくれる方の中には、私の作品に感じた魅力について非常に熱く語ってくれる方がいます。
その褒め言葉の表現力には思わず舌を巻くほどで、彼らの存在もまた、本当にありがたいことです。
そこまで作品をじっくり見てもらえるとは、作ったかいがあったなあと思います。

しかし、褒められると不思議に思うことが一つあります。
それは、私の作品を褒める人しかいないということです。
つまり、「何故私の作品を貶してくる人がいないのだ?」という問いがふつふつとわいてくるのです。
この世に完璧なものなど一つもないですよね?
この世にある全ての作品には必ずどこか欠陥がありますよね?
にもかかわらず、何故もっと私の作品を批判的に見てくれないのだろう?とつい疑問に思ってしまうのです。



我々は、自分が素晴らしいと思う作品を見つけたときに、それを手放しで称賛しがちです。
そして、多少思うことがあっても、面と向かって作品や作者に難癖をつけることはしません。
これはこの島国に暮らす人々が、「事なかれ主義」を共有しているが故でしょう。
とにかく大多数の日本人は、当たり障りの無いやりとりを好みますから。

しかし、もし我々が特定の創作者に対して期待をするのであれば、その人物を褒めるだけではいけません。
我々は彼、または彼女の作品の美点だけではなく欠点についても言及するべきです。
だってそうすれば、もしかしたらより良い作品が生まれるかもしれないんですから。
何も貶すことなく、良い面ばかりを見てしまうのは余りにも不毛ではないでしょうか?
作品の欠点を作者に気づかせるのが鑑賞者の役割だと、私は個人的に思います。

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芸術

- 5 Comments

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2016/05/28 (Sat) 12:03 | EDIT | REPLY |   

皓己  

補足。
(というより修正?)


感動とはしたくてすると言うより沸き起こるものと思うのです。
それは少し冷静を欠いている状態と思うのです。

ですから、作品に「すごいですね」「きれいですね」といった感想をくれる人は、その感想で心がいっぱいでそれを主に言葉に表したい状態だと思うのです。
良い面ばかりを見てしまうのではなく、良い面しか見えないといいますか。

あとそれから、もし悪い面を見ることができる人がいるとしても、ぶち丸さんの作品が発展するよう願う可能性も定かではありませんよ。言わなければぶち丸さんは長年気づかないだろう、くっくっくって人もいるでしょう。可能性の話ね。

舌を巻くほどの表現力でご感想くだすった方も、その感動を自分の持ちうる日本語力で伝えてくださったのでしょう。その一瞬はそれ以上も以下もなく、自分の気持ちを伝えてくれているのです。思った事を思っただけでなく伝えてくださるって嬉しいですよね。そのお手間とお時間と。

で、あるからして。一番に批判が思いつく人は歪んだ気持ちから発生すると思うのです。
つまり誰かに悪戯してやる!嫌な気持ちにさせてやる!という人が一番に口から出る仕組みかと。
誰しも私の絵に文句があるに違いないと人に批判を求める(私がそうなんですけどね)のは、ないものをあると言えというようなものであると思うのです。
感動が先行して悪い点がすぐには見当たらない、無いという認識に近い。

で、我々(書き手)が欲しい批判というのは、改善点。
絵をデッサンだ色使いだと知識でモノを見る感じ。その中でもぶち丸さんの欲しい批判は表現内容の指摘だと思うのです。


そういった方が現れてくれることを望みますけど、案外要らないものと思いますけど。アドバイスによりますけど採用しなければならない気持ちが先行してしまって自分の表現ではなくなってしまう場合だってあるし。


ここがこうしたかったのだけど伝わっていますか?など絵に一文添えてみてはどうでしょう。「そう伝えたかったのか、では…」と一言頂ける気がします。私もそれなら言える気がします。

期待に応えることに責任感を感じられているのかな。期待していますって、確かに良い作品を完成させることを強要しても聞こえますね。
「より良い作品を生み出す貴方の今後を楽しみにしています」という解釈だと思うのです。
ですから現時点で不満があるのではなく、これからも末永く良い作品を生み出し続けることを私は願う。という。
誰しも評論家ではありませんからね。


ここで言う良い作品とは自分が満足できたかできないかだとかでなく、貴方が生み出したものは全て良い、感動する、といったニュアンスを含みます。ぶち丸さんを認めてくださってると思うなあ。

なんだかスピリチュアルを思わせるような、ポジティブな発言ばっかりで恥ずかしいばかりです。決して否定してないのですよ…めっちゃ私も悩んだし、今も時折ぶり返します。ぶち丸さんがどう捉えたいかによって私の意見は無意味ですけど、ポジティブマンの解釈はそうなのかーと参考までに(笑)

2016/05/28 (Sat) 17:00 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

皓己さんへ

うぉぉう、怒涛の長文コメントありがとうございます。
何処から返答しようか迷ったのですが、まあ論旨をくみ取って、要点に関するところについてのみ返答します。
私が何故褒められたくないのか、批判されたいのかについて。

いや~確かに読みかえして我儘だなーと感じましたね。
すこし前の文章とはいえ他人に強制をするとか何様だよって感じですよね。

ただやっぱり、いまでも自分の考え方は恥ずかしながら全く変わっていないと言えます。
勿論意見と言うのは色々あっていいと私は思うんですよ。
ありきたりな褒めたりするような意見、極端なボロクソに貶す意見。
どれの存在も私は否定も肯定もしません。
各人の意見は各人が持っていい、それは確かです。
というか私が何と言おうとそうなっているんだから、各人が様々な意見を持っているという事態は素直に私は受け止めなくてはいけません。

ただ私がそこ(色んな人が好き勝手意見を持っていること)に納得するかと言うと、そうでもないんですよね。
やはり私も自分の意見は持っていますし、しかもヒネクレ者なので選り好みしてしまうのです。
否定的な意見を良い物、肯定的な意見を良くないものと言った具合に。
私は(私にとって)価値のある意見と価値の無い意見の峻別を明確に行います。

これは個人的な好みなので、皓己さんがもし私のこの考えに納得できない場合は、やはりある程度残念さを感じますが、それでもやはり私は自分の信念を貫くことを徹底したい。
無条件に相手をほめちぎる意見に全く価値は無い、私はそう考えます。

ではなぜ私が肯定的な意見を嫌うのか。
それは何もそこから「先」が見えないからです。

本文にもちょろっと書いたように、否定的な意見と言うのはある意味では生産的です。
ある人は私の作品を見て「フン!なんだこの作品は!駄目なところだらけじゃないか!俺ならここをこうして、よりいい作品を描けるぞ!」と思うかもしれません。
その人がより良い作品を描くかは別として、ある意味で彼は私の作品を糧として新しい作品を生み出します。
こういったケースが増えると、作品に多様性が生じ、より良い作品が生まれる可能性が高くなります。

しかし無条件に私の作品を肯定してしまうと、それはもはや一種の宗教のようなもので、先が全く見当たらないのです。
私の作品を見てこれ以上のものは無い・・・!と考える人がいたとしたら、彼は私と似たような作品を生み出し続けるコピー屋になるだけでしょう。
すなわち私の作品が完全であるなら、もう今後誰も新しい絵を描く必要がない、そういった事態に陥ってしまいます。
そうなると新しい物が見れなくなって人生はますます詰まらなくなりますし、今死んでも何も違いは無い、なんてことにもなりかねません。
そう考えるとやはり相手の作品を手放しで称賛してしまうというのは私の信念と全く相容れない考え方なんです。

なので私の作品を観たら「いいね」とただ称賛するのではなく「私ならこうする」というふうに考えていただきたいんですね。
で、私の作品に影響を受けつつも、それを批判的に受け止めて自分の作品の踏み台にする、こういったことを私は鑑賞者に期待しているわけです。
「感動したらそこに安住するのではなくむしろその感動を積極的に乗り越えよ!まだまだ人生は続くんだから!」と。そんな風に思うのです。

まあ個人的な信念なのでこの考え方を強要するつもりは全く無いのですが、やはり私は自分の作品を他者に批判的に見て貰いたいし、私の作品を踏み台にして自分の作品を作っていってほしい、それが本音ですね。
相手に気を遣って批判的な意見を言うことをためらっている人がいたとしたら、その人には「もっと自分勝手に生きよう!他人にどんどん難癖をつけろ!」と言ってあげたいです。

2016/06/16 (Thu) 19:02 | EDIT | REPLY |   

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2016/06/30 (Thu) 14:25 | EDIT | REPLY |   

ぶち丸  

皓己さんへ

今の自分を肯定されるとその時点では嬉しくて、まあ浮かれたりするんですけど、やっぱそこに安住するのはつまらないんですよね。
私は本当に飽き症で好きなものもコロコロ変わりますし嫌いなものもコロコロ変わります。
で、びっくりするのは嘗て嫌いだったものが好きになってたり、嘗て嫌いだったものが好きになってたりということが頻繁に起きるってことなんですよ。
慣れによって、なんか段々好きになったり、また飽きによって段々嫌いになったり、そういった出来事を踏まえると自分の価値観なんていい加減だな、自分って不完全で不安定だなと感じます。
だから場合によっては積極的に嫌いな物のほうに向かっていったりもしますね。
怖いもの見たさですかね。スリルとか味わえますし。

まあそうやって好きになったものも時間が経ったら飽きちゃうわけなんですけどね。
(とかいいつつまた時間が経ったら、なんか好きになって・・・以下無限ループ)

で、そんなわけで何事もすぐ飽きちゃうから、最近、というかもうずいぶん長い間、素直に何事も楽しむことが出来なくなってしまったんですよ。
つまり、何か楽しんでいても「楽しまされてるなあ・・・他人の掌の上でもてあそばれてるなあ」とか「どうせいずれ飽きるんだろうなあ」
といった考えが頭をよぎってしまうんです。
だからまあ知的創造に関しても改良と言えば聞こえはいいんですが、実際は同じところを行ったり来たりぐるぐるしているだけですし、不安にに駆られて仕方なく動かざるを得ないから動いてるだけで全然健全じゃなくて、ものすごく不健康な感じなんですね。

まあ結局のところ矮小な自分の存在を否定したくて、自己拡大のために生きている間に様々な(どうでもいい)活動が行われるわけで、皓己さんと同じく私も自尊心は低いですし、劣等感は強いんです。天邪鬼なのです。
で、それを誤魔化したいから、忘れたいから色々なことに手を出すわけです。

そういったことを踏まえると、最近は肯定も否定もどっちでもいいんじゃないか?という様に考えるようにもなってきました。
「変化し続けたところでいったいそれがなんになろう。ただ疲れるだけじゃないか。同じところにとどまっていれば楽だし、余計な苦労を背負わずに済む・・・。」
こういったことを踏まえると肯定を肯定するか、否定を肯定するかという問いは、要するに「疲れをとるか、退屈をとるかどっち?」という問いとイコールであると分かります。
でもどっちに行ってもロクでもない帰結しか待ってないわけですよね。
結局最期は死んで消える、そういう残酷な運命が待ち構えているだけなわけです。

ならもう、「どっちでもいいじゃん」と。
最近はこう考えるようになったので、常に批判だけを良しとするのではなく、肯定(安住)も批判(破壊)どっちもアリという前提で、それぞれを状況に応じて肯定したり肯定しなかったり、或いは否定したり否定しなかったり、ということを心理的に選ぶようになりました。
まあ、要するに行き当たりばったりと言うことですね。
おかげで最近どんどん自分がい加減な人間になってるなあーと実感します・・・。
まあ何でもありなので突然昔の真面目な自分に立ち返ったりもするわけですが。

というわけでもしかしたら私は、最早皓己さんとはルートも違う、立ち位置も違う、向かう方向も全く異なる異様な境地に達してしまったのかもしれません。
そしてこういう要素が最近の精神的な不安定に繋がっているのかもしれません・・・。

2016/10/07 (Fri) 19:28 | EDIT | REPLY |   

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