脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

01 2037

紹介

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こんにちは、又は初めまして。ネット界最果ての地、脳内交響曲へようこそ。
わたくし管理人のぶち丸は、地球という地獄界の住民です。
地獄界からこのブログはお届けします。

このブログは、私が「見ていると気分がふさぐような自作絵」や「聞きたくもないような話」などの暗いコンテンツを延々と載せていくスペースです。
何故そんな誰にも見向きもされないような創作を試みるのか、疑問に思う人もいるかもしれません。
もっと明るい、一般向けのものを作れば認められやすいし、お金儲けも出来て成功できるのではないか、などと思う人もいるのかもしれません。

私が一般受けしないコンテンツを作り続ける理由、それは余りにこの世界が陽の雰囲気に満ちているからです。
人間の多様性を重んじるならば、世の中には明るい人だけではなく、暗い人がいても別におかしくは無い筈。
しかし、現実には暗い人間は排斥され、虐げられ、陽気な人間に合わせることを強要されます。
そして生きていくうえで多大な困難、苦痛を経験することは避けられません。



別に私は明るい人間のことを否定はしません。
しかし、少しぐらいは陰気で、根暗な人間がいてもいいじゃないかと、そう思うのです。
そのため、このブログでは陽の雰囲気に押されないように、陰の雰囲気を世界に増すことを私は目指していきたい。
最終的に暗い人が出来るだけ生きやすいように世界を持って行ければなあ、と思います。
もしこの変人に興味がある方は、ぜひ最期(私の死)までお付き合いください。
何卒、よろしくお願いします。

また、此の記事の追記に初めて来た人に向けて、より詳細なブログの紹介を書いておきました。
「続きを読む」を押すと、このブログの歴史など色々読むことが出来ます。
読みとばしでも全く問題ないですが、このブログに関心がある奇特な方は是非読んでください。

ブログ紹介 脳内交響曲

24 2017

生きることそれ自体の価値

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について思ったことがあるので、今回はこのことについて少し書いておく。

前回の記事で私は死の恐怖の克服について書いた。
そして、その結論は「死の恐怖を克服することは可能でありうる」というものだった。

「自分の人生を充実させれば、その人生は短く終わろうと良いものであることに変わりないのだから、は怖くない」
この結論に納得できるか出来ないかは人によるにせよ、自分は当時素直にそう感じたのだ。

だが、自分の人生を充実させて死の恐怖を解消するという方法には、実際のところ不十分な点があるのではないか、と思うようになった。
よって本記事ではこの点について簡潔に書いておく。



まずがなぜ死ぬ人にとって悪いのか?を確認しておくと、その害悪は私には二種類あるように感じられる。
一つは自分のこれまで生きて得てきたものを不十分にとどめてしまうという悪(害悪①)。
そして、もう一つは無限にありえたはずの可能的な未来を奪ってしまうという悪(害悪②)である。

両者は似てはいるが、私は厳密に区別する必要があると感じる。
なぜなら、前者は過去の利益に関する悪だが、後者は未来の利益に関する悪だからだ。
(前者の害悪よりも後者の害悪が切実に感じられるのは、恐らく我々が過去よりも未来の方を重視していることによるだろう。)

そして本題に入る。

何故人生を充実させても死の恐怖は克服できないのか。
それは私が思うに、仮に人生を充実させても、害悪①をなくすことができるだけで、害悪②をなくすことは決して出来ないからだ。

もし自分の人生を充実させて、自分がほしい物・ほしい経験を十分に得られれば、自分に死が差し迫った状況で「まだやりたいことがあったのに・・・」「まだ経験したいことがあったのに・・・」といった無念を抱くことはないだろう。
だが、仮に人生を充実させても「もっと生きたいのに・・・」という無念を抱くことは避けられないのではないか。

このように言うと、十分に幸福を得た人には未来なんか必要ないだろう、と言いたくなる人がいるかもしれない。

だが、私には「生きて得られる幸福」とは別に「生きることそれ自体の幸福」というものがあるように感じられる。
そして前者は十分得られる場合があるかもしれないが、後者に関しては十分得られることが永遠にないのではないだろうか。
(つまり分かりやすく言うと、何千年生きようと、何億年生きようと、生きた期間は十分になるわけではなく、生は一定の価値を常に持ち続けるのではないか、ということだ。)

こういうと更に、人生の価値はその内容に依存するのであって、生きていること自体は善いことでも悪いことでもない、と言いたくなる人がいるかもしれない。
だが人生の内容がどうあれ、死を悪足らしめる価値が生にはあるのではないか、と私は思う。

世の中には未来に「何かをしたい」「何かを経験したい」という希望を全く持たない人は恐らく大勢いる。
だが、彼らが希望を持たないにもかかわらず尚死を選ばない理由は、やはり生それ自体に価値があるからだろう。

こう言うと「死に痛みが伴うから彼らは死を避けるのだ」とか「彼らは実は、もしかしたら未来に何か起こるかもしれないと期待していて、だから死を避けるのだ」と言いたくなる人がいるかもしれない。

もちろんこれらの二つも人生に希望を持たない人が死を避ける理由の主なものではあるだろう。
だが仮に痛みが伴わないとしても、未来に特に面白いことが何も起こらないとしても、多くの人は抹殺されることを拒絶するだろう。
このことは生それ自体に死んでいる状態にはない特別な価値があることを物語っているのではないか。
(仮に抹殺されることを望んだとしても、その人は消極的に死を選んだだけで、それを積極的に望んだわけではないだろう。)



生それ自体に特別な価値があるとすると、死はやはり、依然として全ての人にとって災厄であり続けるだろう。
そして、仮に人生を充実させても、害悪①を解消できるだけで、害悪②を解消することはできない。

この考えが正しいとすると、前回私が提示したは死の恐怖の克服法は不十分なものであり、これを実践してもあまり意味はないということになるのかもしれない。
もし害悪①だけでなく害悪②までをも解消しようとするならば、我々は「人生を充実させる」以外に更に別の方法を探る必要があるだろう。

そして実は、「人生を充実させる」という死の恐怖の克服法にはまだ他にもいくつかの問題があるのだが、この点については以降の記事で触れていく。

死の恐怖 人生の価値

23 2017

過去の記事の編集をしていました

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どうもこんにちは、ぶち丸です。
タイトル通り、過去の記事を地道にいじくっていたので、簡単にいじくった内容をここでまとめておきます。



死の恐怖の克服法について

過去の記事の内容をいくつか消去して、別の内容に差し替えました。
そして、差し替えた内容はおおむね「死の恐怖の克服法」に関するものです。

普段我々は自分がぬことなど忘れて暮らしています。
しかし、は誰も逃れることができない事態であり、我々はもし仮に今んでしまうと、
「ありえた未来が生きられない」
「世界に存在できなくなる」
「経験が永遠に消滅する」
・・・などの損害を(おそらく)被ることになります。

が全ての人にとって切実な問題であるのは自明でしょう。
死の恐怖はふとした瞬間に、何でもないときに我々を襲ってくる厄介なものです。
中には日常をうまく送れないほどに深刻な不安を抱く人もいるかもしれません。
少なくとも私はそうです。私は死ぬのが怖いです。
よって、この恐怖はどうすれば克服可能なのか?方法はあるのか?ということについて考え、そして記事を書いた次第です。

死の恐怖なんて克服可能なのか?という疑問を持つ人がいるかもしれません。
しかし、私が思うに死の恐怖というのは必ずしも絶対的なものではないので、(理論上)克服可能です。
一見死ぬことは上記のようなマイナス要素があるように感じられるのですが、しかしこのマイナスはあくまで我々の思考(心)が見出しているものにすぎません。
あくまで、体験が消滅することを我々が悪であると判断するから、それが悪であるということになるのです。
我々が何らかの要因によって死に悪を見出すことをやめれば、死の恐怖はおのずと払しょくされるでしょう。

だから改めて言いますが、死の恐怖は(理論上)克服可能です。
死の恐怖が解消するなどとはにわかに信じがたい人もいるかもしれませんが、しかし私はいくつかの解決策を提示してみようと思います。
方法ごとにその方法が妥当なものか吟味する記事を作っておきましたので、興味がある方は良かったらご覧ください。
(絶対に恐怖が解消するという保証はありません、あしからず。)



以下が各記事のページへのリンクです。
(※未完の記事は「書いてみたら内容がつまらなかった」、「他と内容が重複する」といった理由であえて完成させなかったものです。)

〇執着を捨てる系
QOL(生命の質)を意図的に落とす。
・自我の存在を否定する。(未完)
主観的視点を捨て、客観的な視点を持つ
自分をちっぽけと見なす。

〇放っておく系
自然に消えるのを待つ。
・いつ死ぬかわからないからまだ大丈夫だろう、と楽観する。(未完)

〇死を肯定的にとらえる系
死を喜ばしい出来事と見なす。
死は人生を有意味にすると考える。
(=死ぬことは不老不死よりはましと見做す)

〇考えないようにする系
何かに没頭する。
エピクロス主義
自殺する。

〇死を無害と見なす系
ルクレティウスの対称性論法
・死を睡眠と同一視する。(未完)
・独我論(未完)

〇死の存在を否定する系
・死後の世界の存在を信じる。
科学の進歩に期待する。
・歴史に自分が生きた証を残す(未完)

〇時間の見方を変える系
・現在中心主義(未完)
・タイムレス(未完)

〇割り切る系
寿命だから仕方ないと割り切る
他者の死について思いを巡らす。
・十分生きた、いつ死んでもいいと満足する。(未完)
・そもそも生は無いこともありえたのだから、仮に短い生であると感じても、あっただけましと考える。(未完)
自分が正しいと信じる生き方を貫く



これらの方法のどれか一つ、或いは複数を継続して実践すれば死の恐怖は克服できるかもしれません。
この方法が正しい、間違いとかではなく、あくまで考え方の一つとして見てもらえるとありがたいです。
(念のために言っておくと、書かれている内容=私の意見というわけでもありません。コロコロ考えが変わるので。)

個人的には今のところ「自分が正しいと信じる生き方を貫く」と「そもそも生は無いこともありえたのだから、仮に短い生であると感じても、あっただけましと考える。」のセットが一番しっくりきますね。

ただ、やはりいくら工夫をこらしたところで、死の恐怖はぬぐいがたいと感じる方もいるでしょう。
その場合は、死の恐怖の克服に関心を寄せるよりも、死の恐怖を抱きつつ生きるにはどうすれば良いのか?を模索したほうがいいかもしれません。

私の個人的な意見としては、死の恐怖を抱えつつ生きるという選択はアリだと思います。
なぜなら、死の恐怖はもちろん無いに越したことはないのですが、一方でこれが我々に人生が有限であることを気づかせてくれる役割を持っており、これが人生を大切にするためにはある意味不可欠だとも思うからです。

この考え方を最も象徴的に表現しているのは所謂「メメントモリ」でしょうか。
メメントモリとは、知っている人も多いと思いますが、「死を想え」という意味合いの警句です。
この言葉の解釈は様々でしょうが、文字通りに受け取るならば「時間は有限なんだから、大切にせよ」という警句として理解できます。
まあ、言っていることはもっともですよね。

少なくとも、人は死の恐怖を自覚すると目標に向かって一直線になるので、何かしら目標がある人はそっちのほうがいいでしょう。
もし死の恐怖を抱いたままでいい、という方がいらっしゃるならば、その方は上記の方法を実践する必要はありません。

・・・死の恐怖については、とりあえずまあそんな感じです。



・その他の記事

あと、他の全書き直しした記事も以下に載せておきます。
次の三つです。

人に好かれることが幸福であるとは限らない。
私の世界が唯一の世界ではないか?
結婚式に誘われる不幸

上記の記事以外にも細かいところを直した記事は一杯ありますが、もう面倒なので割愛します。

それにしてもホント、こんな誰も見ないブログの、しかも過去の記事をなんで必死に編集し続てるんでしょうね。
我ながらあきれるばかりです。



・気に入った曲のまとめ

あと、気に入った曲のまとめも作っておきました。
ジャンルは基本的にはメタルばっかになります。私の好みゆえに。

デスメタル/メロデスの名曲集
ブラックメタルの名曲集(00年代以降)
フォーク・アコースティック・アンビエント等の名曲集
ゴシックメタル/ドゥームメタルの名曲集
ポストブラックメタルの名曲集
ブラックメタルの名曲集(90年代以前編)

以前は一つの記事に動画7個くらいを張っていましたが、全体的にだいぶ増やしました。
もっと増やそうと思えば増やせるのですが、きりが無いので、「まあこれくらい」というところで止めておきました。
時間に余裕がある方は聴きましょう。おすすめばかりです。

あと、私はこんな名曲を知ってますよ!という方がいらっしゃったら、どしどしコメント欄にお書きください。
最近良い曲に飢えているので、心よりお待ちしております。



とりあえず記事の書き直しについてはまあそんな感じです。
この記事数の少ないブログでそんなに直すってことはほとんど全部書き直したんじゃないか!って突っ込む人がいるかもしれませんが、その通りです。ほとんど書き直しました。

いやー本当何したかったんでしょうね自分。
過去の記事の内容をすり替えるぐらいなら、普通過去の記事を削除してしまって新しい記事を作りますよね。

ただこのブログは絵と文章をセットで載せてるから、記事ごと消すというわけには中々いかないのです。
やはり絵は、ちゃんと書いた時期のポジションにおさまってないと落ち着かないのです。
まあこういう下らない拘りがあるから更新のペースが遅くなるんですが、こればっかりは私の性格によるものなので、もうしょうがない。

あと、こっからが一番馬鹿らしい話なのですが、過去の記事の修正は終わったわけではなくて、実はまだ6つほど直ってない記事があるのです。(爆)
まだあんのかよっていう。ほんと面倒な話です。

まあこれはほんと過去の記事をろくに仕上げられなかった私の責任なのですが、これからまたちょっと時間をかけて6つの記事を書き上げていこうと思います。
そして、差し替えが完了したらその模様はまた次の記事で説明します。

とりあえず今のところはそんな感じです。

死の恐怖

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死は全ての人にとって切実な問題であり続けてきたし、これからもあり続けるだろう。
人が存在し続ける限り、死は未来に必ず起きる事態であり、また全ての人にとって有害なものでありうる。
死はあくまで観念的なものにすぎないと強引に考えることもできよう。
だが仮にこれを幻想だと思い込もうとしても、現に周りの人が次から次へと死んでいっている以上、恐怖は払しょくしがたいものがある。

では、我々にとって死はなぜ恐ろしいのか。
我々が死を害悪と見做のは、結局のところ次のような理由によってである。
例えば、20年の人生幸福に生きた人物と80年の人生幸福に生きた人物がいたとしよう。
このようなケースで我々が前者を不幸であるとみなすのは、その人物が生きた期間が十分ではないからである。
つまり、生きた期間が短くなってしまうからこそ、死は我々にとって恐ろしいというわけだ。

では、死の恐怖・害悪を克服するにはどうすればよいのだろうか。
この問いに対する答えは様々なものがあるだろう。
ただ最近私は、人が死の恐怖・害悪を克服するには、「人生における全期間において、自分が正しいと思う生き方をつらぬくしかない」と考えるようになった。



上でも述べたように死は人生の長さを損ねるものではあるだろう。
だが、人生の価値とは長さで決まるのだろうか?
いやそうではない。
仮に長生きだとしても、その人生が善いものでなかったとしたら、一体長生きできたところで何だというのか。
仮に長生き出来なかったとしても、自分の信念を貫ければ人は無条件に幸福だし、また長生きであったとしても自分の信念を貫けなければ無条件に不幸であるに違いない。

私は人生の価値を決めるのは長さではなく質のみだと思う。
多くの人は80年の人生に比べ、20年しかなかった人生を不幸であると判断するだろう。
だが、たとえ20年で終わってしまったとしても、もし自分の信念を貫いた善い人生を歩んでいたならば、その人は不幸ではないと思う。

生きていればできる様々なことも、一度死んでしまえば決してできなくなってしまうののだから、死は悪に決まっていると考える人ももちろんいるだろう。
或いは、自分の信念を貫くには、幸福に生きるには人生の期間がそれなりになくてはならない、と考える人もいるかもしれない。
だが、死によって人生が短く終わってしまったとしても、その死によって人生が不幸なものであったということにはならない。
2個のおいしいビスケットが1個のおいしいビスケットよりも仮に優れていたとしても、1個のおいしいビスケットが善いものであることには変わりない。
人生も同じことだ。
善い人生を歩んでいる人には、たとえ死であっても損害を与えることは出来ないし、また彼を不幸にすることもできない。
仮に20年で終わってしまったとしても、幸福な人生を歩んでいたならば、我々は彼(彼女)が不幸であると決してみなすべきではない。
なぜなら、彼(彼女)の人生はあくまで善いものだったのだから。



だから改めて言うが、もし死の恐怖を克服するにはやはり自分の信念を徹底して貫いて、幸福に生き切るしかないと私は思う。
こういうのは死の恐怖を克服する方法としては、一見陳腐なものではあるのかもしれない。
だが、何周も遠回りしてたどり着いたこの方法は、不思議なことに私に大変よく馴染むのである。
もちろん死を全面的に無害であるとまだ見なせるようになったわけではない。
だがこの方法を実践すれば、死の恐怖は完全に克服できるのではないか、と最近ふと思うようになった。
(もちろん、自分の信念を常に貫くというのは容易なことではないとも思うが。)

死の恐怖 幸福 人生

22 2017

死後の世界を信じたほうが得なのか?

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我々は生きている間に死について思いを巡らせ、そのことによってしばしば悩みます。
例えば、病気などによって自らにどうしようもなく死が差し迫っているときや、身近な人が死んだりしたときは、死を有害視するのは当然のことでしょう。
或いは、自分が積み上げてきたものを無に帰してしまうがゆえに、死を有害視する人もいるかもしれません。

そして、死について思い悩むことは人生に支障をきたします。
上記の例に関して言えば、相当な努力が必要な目標を掲げている人が「どうせ死んでしまうのだ・・・」と、その目標を投げ出してしまうことが考えられるでしょう。
或いはまた、死が迫っている人が感じるであろう消滅の恐怖は計り知れないものがあるでしょう。
現に今健康な私ですら、死は恐ろしいですから。
死を恐れることによってもたらされる負担は、もしそれがないのであればそれに越したことはありません。



では、死を恐れないほうが得だからという理由で死後の世界を信じるのはありなのでしょうか。
死後の世界の存在を主張する人の中には、その理由で自らの主張を正当化する人がいます。
彼らの言い分は大まかにはこうです。

(死が消滅である場合)
死後の世界を信じている人(①)→生きている間に不安はない。そして死後に自分の過ちを知ることもない。よって幸福である。
死後の世界を信じていない人(②)→生きている間に不安にさいなまれる。そして死後に自分の正しさを知ることもない。よって不幸である。

(死が消滅ではない場合)
死後の世界を信じている人(③)→死後に自分の正しさを知る。おまけに生きている間に不安はない。よって幸福である。
死後の世界を信じていない人(④)→死後に自分の過ちに気づく。おまけに生きている間は不安にさいなまれる。よって不幸である。

(結論)
いずれにせよ、死後の世界を信じたほうが幸福である。

もし死に恐怖を感じないのだとしたら、その人は恐怖にさいなまれているよりは幸福であるのは確かでしょう。
しかし、この論証をそのまま鵜呑みにできるかというと、難しいものがあります。



まず一点、上記の論証では①のほうが②よりも優位であるとは、必ずしも言えないと思うのです。
確かに①の人は不安を感じているわけではありません。
その点で、①の人は不幸ではないように見えるのですが、やはりその人も消滅してしまうのだとしたら、すごく不幸であるように感じられるのですよね。
死んで消滅するならば、どっちにしろマイナスじゃんか、と。
むしろ自分の置かれている状況を正しく認識できていないのだから、その点ではある意味、②よりも①のほうがより不幸といえるかもしれません。

そしてもう一点、③のほうが④よりも上記の論証においては優位とされていますが、それもどうも私には疑わしいのです。
仮に死後の世界があったとして、そこがあることってそんなにいいことなんでしょうか?
死後の世界を信じている人は、「死後の世界は自分にとって善い世界である」と信じているがゆえに安心を感じているのでしょう。
もし死後の世界が地獄だったら、安心を感じることはできませんから。
しかし、それがどうも楽観的過ぎて、自分にはうさん臭く思えてしまうんですよね。
実際死んでみたら、死後の世界がこんなに酷い場所だったなんて!と思うこともありうるのではないでしょうか。
(死後の世界を素晴らしいと思ったほうが得なのだから、素晴らしいと思えばいいと言われたらそれまでですが。)



まあとはいえ、上でも述べたように、不安というのは一般的に見れば無いに越したことはないわけで、そういう意味で死後の世界を信じること、そしてその世界が素晴らしい世界であると信じることには一定の価値はあるのでしょうね。
しかし確かに理屈ではわかるんだけど、本気で死後の世界を信じられるかというと「う~ん・・・」という感じですね。個人的には。

死後の世界 価値

07 2016
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お久しぶりです、ぶち丸です。
凄い間が開きましたが、たかだか数か月という期間は私にとってほんの一瞬に過ぎないので、何食わぬ顔で更新させていただきます。
まあ、最早このブログをマトモに読んでる人はいないでしょうし、別に更新されないからと言って誰にも支障はないですから、ノープロブレムですね。

さて、こんだけ間が開いたのだから絵を沢山載せることを期待している人もいるかもしれません。
(実際にはいないだろうけど、いると仮定して話を進めます。)

しかし生憎ですが、ここ最近私は殆ど絵を描いておりませんでした。
ついさっき上の絵を数時間かけて仕上げたのが、ここ数か月における唯一の絵画制作です。
もし期待している人がいたら、大変申し訳ない。

では、一体私はこの長い空白期間に何をしていたのか。
まあ知りたい人はいないと思うけど、一応言っておくと、様々な情報を脳にインプットすることに専念しておりました。
すなわち、主に興味のある本を読み漁ったり、たまに音楽を聴き漁ったり、たまにゲームをしたり・・・と言ったことに時間を費やしていたのです。

最も、インプットと言うと何だか聞こえはいいですが、実際はノンベンダラリとしていただけです。
何と私は一切非生産的に、ここ数か月の期間を生きたしまってのです。
ああ、建前上は創作者であるにもかかわらず何ということでしょう・・・。

もしここ数か月の私を誰かが眺めていたとしたら、その人物が私を落伍者と認定するのは必至です。
そのぐらい主観的に見ても客観的に見てもどうしようもない人生を送っていました。
(最もそう言う人生を送っていたというのは、別にここ数か月に限らずずっとそうなのですが)

で、これじゃいかん!ということでふと絵を描くことを思い立ち(思い出し?)、サッと絵を描いてこの度更新に踏み切ったわけです。
ずっと描いてなかったので上手く描けるかなあ・・・と些か心配でしたが、実際描き出してみるとテクニックを失念しているということも無く、間が開いてても、根本的に勘が鈍ってるということはありませんでしたね。
まあ、そのあたりはチョットホッとしました。



で・・・何が言いたいかと言うと、要するに、ここ最近絵を描かずにズルズル来てしまったわけですね。
今思い返すと、別にお金になるわけでもなく、大して称賛されることも無いのに、「ああ~描いておけばよかった~」と結構後悔してます。
やっぱなんだかんだ言って(間が開いていたとはいえ)自分がずっと続けてきたことですし、絵を描くことが嫌になったというわけでは無いのでしょう。
最も好きで描いているかというとそうでもなくて、実際のところは、自分でもよく分からない感情に駆られて描いているという感じなんですけどね。

まあとはいえ、ノンベンダラリと過ごしていたと言っても、必ずしも無為に時間を過ごしていたわけではないのです。
何も完全に人生をあきらめて、主体性を放棄して、いい加減に遊びほうけていたわけではありません。
いくら堕落していたからと言っても、絵を描かずに私が本を読んでいたのには理由がちゃんとあるのです。
基本的に私は無駄だと自分が感じるようなことをして時間を潰したりはしません。
(まあ人生全体がしばしば無駄に感じられますがそれはさておき。)

では、じゃあどういう目的があったかと言うと、それはまあ大体振り返ってみて自己分析してみればはっきりしていて、要するに「不安の回避」です。

当たり前のことですが、生きていると不安なことって一杯ありますよねえ。
将来のこととか、何で生きてるんだろうとか、死んだらどうなるんだろうとか、人間関係がつらいとか。
ハッキリ言って自分の人生の状況は現在中々酷いもので、かなり参っております。
私も普段は平静を装っていますが、実際のところかなり精神的に不安定で、色んなことが怖くて怖くて仕方ないのです。
そこでどうやって解決しようか?ということで、私の場合その解決策を本に求めたわけです。

まあここ数か月はそんな感じで、本を読んでばっかりの生活を送っていましたね。
勿論起きている間ぶっ通しでずっと読んでいたか?というと勿論そんなことは無いんですが。
適度に休みを取ったり(=怠けたり)する時間を挟みつつ、自分で考えることと並行して読書をしていたという感じですね。

私の場合、問題意識がまず最初に会って読書にのめりこんだので、読んで終わり、という風にはもちろん行きません。
読めども読めども次から次へと謎が湧きだし、まるで無限回廊を彷徨っているかのような気分です。
そして私は何もわかっていなかったんだ・・・という感覚に日々打ちのめされています。
正直抜け出したいところですが、考えずにはいられないというのが人生の問題の難しいところです。



さて、ここでじゃあどの本を読んだか?と言うことは語っておくべきなのかもしれませんが、ハッキリ言って面倒くさいし何の得も無いので、この記事でイチイチ取り上げていくのはやめておきます。
とはいえ獲得した知識はここで今後ひけらかしたりはするかもしれません。
今まで何度も「覚え書き」というタイトルで、どうでもいい知識を羅列した記事を書いてきたりしましたが、今度何か本から知識を使う際は、私が抱えている個人的な問題に関するものに限定するつもりです。
まあそれに関しては機会があればと言うことで。

で、あとはそうですね、今後についてですが、やはり今迄通り今後もこのブログは不定期更新になりそうですね。
まだ読み終わってない本が山のようにあったりしますし、基本的に私は予定をたてて行動することが出来ないダメ人間なので、こうしよう!と思っても絶対そう言う風には動かないのです。
(そして、この私の性格は作品にも如実に反映されています)

なのでまあ今後こうしよう!という具体的な目標は決めずに生きていこうと思います。
今は、上でも書きましたが、精神的に不安定なので、小難しいことは考えたくないのです。
いい加減で、もし私に何かしら期待している人がいたらホントにスイマセン。

まあというわけで、私は落伍者として今後も気ままに自分のペースで、絵を描いたり遊んだり好き勝手やっていきます。
流石に何か月も絵を描かないというのは、逆に描かないことによって精神が不安定になるからもうやめにしたいけど、やはり未来に関しては何ともいえないです。
少なくとも死なない限り更新はやめないので、まあ気長に待ってください。
それでは、また。

近況報告

21 2016

デスメタル/メロデスの名曲集

ネット上にある気に入った曲の動画をまとめた記事です。
今回はデスメタル/メロディックデスメタル編。

Morbid Angel - Maze of Torment(1989、Album:Altars of Madness)



デスメタル メロディックデスメタル