脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

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紹介

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こんにちは、又は初めまして。ネット界最果ての地、脳内交響曲へようこそ。
わたくし管理人のぶち丸は、地球という地獄界の住民です。
地獄界からこのブログはお届けします。

このブログは、私が「見ていると気分がふさぐような自作絵」や「聞きたくもないような話」などの暗いコンテンツを延々と載せていくスペースです。
何故そんな誰にも見向きもされないような創作を試みるのか、疑問に思う人もいるかもしれません。
もっと明るい、一般向けのものを作れば認められやすいし、お金儲けも出来て成功できるのではないか、などと思う人もいるのかもしれません。

私が一般受けしないコンテンツを作り続ける理由、それは余りにこの世界が陽の雰囲気に満ちているからです。
人間の多様性を重んじるならば、世の中には明るい人だけではなく、暗い人がいても別におかしくは無い筈。
しかし、現実には暗い人間は排斥され、虐げられ、陽気な人間に合わせることを強要されます。
そして生きていくうえで多大な困難、苦痛を経験することは避けられません。



別に私は明るい人間のことを否定はしません。
しかし、少しぐらいは陰気で、根暗な人間がいてもいいじゃないかと、そう思うのです。
そのため、このブログでは陽の雰囲気に押されないように、陰の雰囲気を世界に増すことを私は目指していきたい。
最終的に暗い人が出来るだけ生きやすいように世界を持って行ければなあ、と思います。
もしこの変人に興味がある方は、ぜひ最期(私の死)までお付き合いください。
何卒、よろしくお願いします。

また、此の記事の追記に初めて来た人に向けて、より詳細なブログの紹介を書いておきました。
「続きを読む」を押すと、このブログの歴史など色々読むことが出来ます。
読みとばしでも全く問題ないですが、このブログに関心がある奇特な方は是非読んでください。

ブログ紹介 脳内交響曲

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前々回の記事の最後の方で私は「人生を充実させるという死の恐怖の克服法にはいくつかの問題があり、以降の記事でこの点について説明していく」と書きました。
そして、そう書いてから半年近くも記事を更新をしていなかったわけなんですが、今回の記事では重い腰を上げて、ようやくそのことについて書いていこうと思います。



なぜ、人生を充実させても死の恐怖を克服することが出来ないのか。
これについては死ぬ間際の自分を思い浮かべてみるとわかりやすいと思います。

例えば、(この文を読んでいる)あなたが非常に充実していた人生を送ってきた人物だとしましょう。
美しい容姿を持ち、裕福で、人間関係に恵まれ、自分の夢を全て叶え、幸福な家庭の中で生き、十分健康に長生きし、あなたは自分の生きてきた人生に特にこれといって不満があるわけではない。
そして、ある時苦痛を一切感じない不治の病にかかり、余命が残り半日くらいしかないと医師に宣告されるとします。
特に身体の調子が普段と比べて違っているというわけではないけれど、あと半日ほどでこの世界から眠るように消滅しなければならないらしい。
こういう状況であなたは恐怖を感じるでしょうか、それとも一切恐怖を感じず穏やかに死んでいけるでしょうか。

もしかしたら恐怖を一切感じないという人もいるのかもしれません。
例えばあなたが死後の世界を信じている人とかだったら、仮に余命宣告されても全然へっちゃらなのでしょう。
でも、もしそうでないならばやはり死に対して一切恐怖を感じないというのは無理だと思う。



なぜ充実した人生を送ったにもかかわらず、苦痛が伴うわけでもないのに依然として死は恐ろしいのでしょうか。
いくつかの理由が考えられます。
まず一つ言えることは「充実していた自分の人生というものが死の恐怖を克服するためのツールとして全然機能していない」ということです。

前回の記事(時間の経過について)でも述べたことですが、時間の経過は過去のモノや出来事を消滅させてしまいます。
そして、充実していた人生という出来事は死ぬ間際の今においては過去のことでしかなく、どこにも最早存在していないわけですから、それがあったということは何のプラスにもなりません。
だから、どういう人生を生きてこようが死の恐怖の克服にはまるで役に立たないんじゃないかと、我々はこういう風に考えることが出来ます。
(つまり死ぬ間際に「いい人生だった」と振り返る人はいると思うけど、ああいうのは全部意味がないんじゃないかということです)



「いや、自分が生きてきたということは今でも変わらないんだから、それは完璧に無になったわけじゃないよ!」と言いたくなる人もいるかもしれません。
そう主張する人は恐らく、「記憶や様々な証拠があるんだから過去は今もあるんだ!」ということを何の疑いもなく信じているのでしょう。
確かに私も日常的なレベルでは過去をまるで今もあるかのように見做すことはザラです。
(例えば故人の写真を見た場合、私はその個人が実際に何十年の人生を生きていたということをごく自然に了解します。)

がしかし、よくよく考えれば明らかですが、そういった証拠もあくまで「今」あるものでしかないし、記憶も私が「今」思い返している対象でしかありません。
もし自分がどこかに行って過去がまだあることを確認出来たら過去があると信じてもいいのでしょう。
しかし、そういうことが出来るかというと、やはりどこにいってもあるのは現在の光景でしかないわけですから、過去の光景自体の観測などできるはずもない。
なので過去の出来事まるごと消えさって今では無でしかないんじゃないかと、そういう実感が私の頭をもたげてくるのです。



そして、ここで強調しておきたいのは「過去の出来事はかつてあったが、今では無になってしまった」と考えるだけでなく「そもそも過去の出来事は無かったんじゃないか」と考えることも出来なくはないということです。
いや、前者よりも後者の方が主観的に見れば正しいような気すらする。

こういう主張は殆どの人にとっては極論に聞こえるかもしれないですね。
しかし冷静に考えてみれば明らかなことですが、今の成立には必ずしも過去は必要なわけではありません。
なぜなら、今の成立には「今の出来事」や「今の物」などがあればそれで十分なわけですから。
別に世界が一瞬前に(或いは今?)存在し始めたと考えたとしても何の矛盾もないわけです。
常識的に考えれば過去は客観的にあると言いたくなりますが、しかし主観的に見れば本当に自分の人生があったかどうかすら我々には確認することは出来ません。

とすると、100年幸福に生きようが1000年幸福に生きようが1億年幸福に生きようが死ぬ間際にはそんなこと関係無いわけで、どういう人生を生きてきたかと全く関係なく恐怖が襲ってくることは十分想定出来ます。
これが人生が充実していたとしても死の恐怖が襲ってくる理由のひとつ目。



そして人生がどれだけ充実していたとしても死ぬのが怖いのにはもう一つ理由があります。
それは前々回の記事でも指摘したことですが、どれだけ充実した人生を送ってこようが依然として死は我々の未来を奪い去ってしまう事態に他ならないからです。
これまで不幸な人生を送ってきてこれから更なる不幸が待っているような人であれば、死によって奪われるものは少ないと言えるのかもしれません。
しかしこれまで幸福な人生を送ってきてこれから更なる幸福が待っているような人であれば、死によって奪われるものは非常に多い。
(この観点で考えると、不幸のうちに死んだ人よりも、幸福のうちに死んだ人の方を不幸であると形容したくなります。)

とはいえ、この主張に対してはまだ反論することが可能です。
先ほど私は過去はまるごと無であると考えることもできると主張しました。
そこから過去と同様に未来も無ではないのか?と、そして未来が無ならば死によって失われる未来もないのだから死は恐ろしいことではなくなるのでは?と、「死が未来を奪う悪である」という主張に対してはこう反論することも出来なくはないです。



しかし、この反論は私を納得させられるものではありません。
なぜなら過去がまるで無いように感じられるのに対して、未来は過去と違ってあるように私には感じられるからです。
つまり今においては過去も未来も一見同じ無に過ぎないわけなんですが、未来は過去に比べて無よりも有に近いというわけですね。
これは「過去の出来事はもう二度と起こることはないけど、未来の出来事はこれから起きるに違いない」という観念が我々の中にあるからでしょう。
(100年前の人と100年後の人を比べて前者の方がより不幸であるように感じられるのは、恐らくこういった理由からですね)

勿論未来が絶対にあるという保証は出来ないのですが、上記の理由によって自分が死んでしまった後も世界は未来に向かってずんずん進んでいくのだろうという観念は払しょくしがたいものがあります。
だから、仮に我々が「死によって奪われる未来なんか無いんだ!」と必死に思い込もうとしても、死ぬ間際にはやはり恐怖が我々を襲ってくることでしょう。



では、まとめに入ります。
私がこれまで言ってきたことは大まかには以下の二つです。

①充実した人生を送ってきたという過去は、死ぬ間際には無になっているので何ら役目を果たさない。
②どれだけ充実した人生を送ってきたとしても、死は依然として未来の剥奪であり続ける。


そして、これらの二つの理由によって人生を充実させることは死の恐怖を払しょくする上で何の意味もないということになります。
つまり結局何が言いたいかと言いますと、

「どうせ死んでしまうのなら、人生を充実させよう!」
「どうせ死んでしまうのなら、一度しかない人生を大切に生きよう!」
「どうせ死んでしまうのなら、今を大事に!」
「どうせ死んでしまうのなら、精一杯、懸命に生きよう!」
「どうせ死んでしまうのなら、成長!社会貢献!」
「どうせ死んでしまうのなら、夢をもとう!希望をもとう!」

↑こういった文句を真に受けて、それに従って生きたとしても死の恐怖を克服する上では何のプラスにもならないということですね。
(まあ何かに夢中になると頭が空っぽになりますから、死の恐怖を忘れようとする上では役に立つのかもしれませんが・・・)



仮に(世間的に見て)良いことじゃなくて悪いことをやったとしても同じでしょう。
例えば「他人を巻き添えにして死ねば少しは報われるだろう!」とか「どうせ死んでしまうのだからレイプしよう!」とか考えるやばい人も当然いると思うのですが、仮にそういうことをしても死の害悪は一切減るわけではないです。
やはりどんなに自分にとって気持ちいい経験をしても次の瞬間には過去のことになってしまっているわけですから、死ぬ前に何をやっても死の恐怖を克服する上では意味がありません。
よって何をやっても死の恐怖を消し去ることは出来ないし、死が悪で無くなることは永久に無いという事、これが私が最終的に導き出した結論になります。
(過去と言ってることが真逆になってますが・・・)

勿論前回の記事でも述べたように「楽しいことをするな!」とか「人生を充実させるな!」とか私は言いたいわけではないのですよ。
別に楽しいことは必要なことなんだから、したいようにすればいい。
我々は死によって時間的に限界づけられているわけですから、限られた時間の中で必死に自分の人生を充実させようと努力するのは当然のことです。
でも楽しむことは否定しないけど、「死の恐怖を克服すること」と「人生を充実させること」を結び付けるのはナンセンスなんじゃないでしょうか。
つまり「楽しいことをして死の恐怖を克服しよう!」ではなく「楽しいことはどんどんやるべきだ。でもいつかは死んでしまう。それはどこまでいっても最低なことだなあ。」と考えるのが一番自然なんじゃないかと私は思うのです。



(追記:2017.09.24)
あと最後に一つ言っておくと、人生を充実させるという死の恐怖の克服法には実はもう一つの難点があります。
というかこれは全ての死の恐怖の克服法について言えることなのですが、死の恐怖を克服することってそもそもそんな大事な事なのでしょうか?

恐怖の乗り越え自体は何かに夢中になって死を忘却すれば可能でしょう。
例えば私も四六時中もうすぐ死んでしまうのかも・・・とか考えているわけではないですし、忙しいときは死のことなんて考えたりしません。
しかしそれは単に忘れているだけであって、死に直面すれば当然怖いだろうし、自分がいつか死ぬことを思い出したときはやはりゾッとするんですね。

私は死の恐怖が克服されたからと言って死が脅威でなくなるとは思いません。
我々にとって死が脅威であるのはそれが未来を奪ってしまうからであって、それに対して恐怖を感じるからではないのです。
にもかかわらず、なぜ死の恐怖を克服することが重要視されるのでしょうか?(そういう内容の本やサイトは腐るほどありますが)
自分の死が脅威でなくなるには「死ななくなる」しかないわけで、不老不死が実現されているわけでもないのに死の恐怖だけが克服されても全く意味がないと私は思います。



いや、むしろ死の恐怖は幸福に生きるためには必要とすら言えるでしょう。
死の恐怖を感じないという主張は自己を限りなく希薄化して軽んじている気がする。
基本的に我々が自身の健康を重視したり、危ない場所に行かないようにしたりするのは死の恐怖があるからであって、これを抜きにして我々は自分自身を大切にすることなど出来るはずがありません。

なので死の恐怖は別に悪いものではないし、私はこれを克服する必要は全くないと考えます。
一見恐れを感じることは不幸だと思われがちですが、悪いものを恐れることが出来ないほうが余程不幸だと私は思いますし、恐れる方が不幸だなんてことは絶対ない。
自分の生きる価値を認めることと死を恐れることは表裏一体です。
皆さんもしっかり自分の死を恐れて充実した今を生きましょう。
(珍しく前向きなことを言ってしまった、自分らしくない)

人生 死の恐怖 時間

22 2017

時間の経過について

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更新に間が空いてしまいました。結構辛いことが多くて色々と余裕がない感じです。
で、まだ別にその状態から脱したというわけではないんだけど、思うことは色々あるわけでそろそろ記事でも書いていこうと思います。
まあ辛いときのほうが色々気づけることもあるだろうし、こういう状態で無理して書くのも悪くないよね。

で、最近というかずっと「時間の経過」について悩んでるので、今回はこの点について簡単に話してみたいと思います。
多分色んな人が色んな理由で自分の人生について悩んでいると思うんだけど、私は時間が経つにつれて出来事とか物が消滅してしまうということが原因で結構悩んだりします。
「そんな悩みを抱えてるなんて変わってますね」って思う人もいるかもしれない。
まああまりそういう悩みを持ってる人を見たことはないし、多分こういう悩みを抱いている人は少ないんでしょう。
でもやっぱり「時間の経過」は自分にとって生きがいをかなり削いでしまう要因の一つの気がする。



例えば楽しいことを目前に控えていたり、あるいは楽しいことをやってるときに多分普通の人だったら「楽しみだなあ」とか「楽しいなあ」とだけ思うのでしょう。
勿論私もそういうことを思ったりはするんですが、でも、ふとした瞬間に「いずれこれらは消えてなくなってしまうのだなあ」という虚無感が私を襲ってくる。

この感覚は私から楽しいときも決して離れていかないのです。
そして楽しいことが案の定通り過ぎて消滅してしまうと「ああ、やっぱり消えてしまったなあ」という残念な気持ちになってしまう。
そして、次に面白いことがあってもやはり同様に「これもまたいずれ消えてなくなるのだなあ」という気分になってくる。
延々とこの繰り返し。無限ループ。

基本的に楽しいことが終わった後でも記憶は残るんだからそれで十分じゃないか!と言う人もいるのかもしれません。
でも幸せな記憶があるのってそんな幸せなことなのでしょうか?
多くの人にとっては幸福であったという記憶があることはそれが無いことよりも重要なことなのかもしれません。
でも、一番重要なのは「幸せであったかどうか」ではなく「今幸せであるかどうか」であるはず。
ならば、幸せな過去を振り返ることは無意味なのではないでしょうか。
むしろ過去の幸福を思い出すことは今の不幸を際立たせてしまう、なんて場合もあるんじゃないでしょうか。
(記憶があることのメリットなんて、せいぜい自分が自分であるという安心感が得られることくらいでしょう)



とはいえ、私は「どうせすべては無くなるんだから、楽しいことを一切するな!」と言いたいわけではありません。
もし一切楽しいことが無かったら生きる気力を失くしてしまいますから、なにかしたいことがあればそれを積極的にすることは重要なことでしょう。
基本的に我々の人生はつらい物なわけですから、楽しいことが無かったらやってられません。
だから、いずれ何もかもが無くなるからといって我々は別に目の前の何かを台無しにしてしまって堕落する必要なんて全くありません。

がしかし、それでもいずれ来る消滅を予期してしまうから、やはりその虚しさは決して消えないのではないか、というのが私の正直な本音なのです。
人生で得るべきものを仮に全部得たとしても、その得たものは全部時間の経過によって消滅してしまうわけですからね。
時間の容赦ない経過は人生を充実させようとする意図を挫くものとしては十分すぎる気がします。
(まあ気にならない人はやはり気にならないんでしょうけど)

この時間の経過の厄介なところはどうやってもこれを止めることが出来ないという点にあると言えるでしょう。
恐らく時間を止めるためには自分が死ぬしかありません。
死ねば間違いなく時間は止まります。
だから時間を止めるためには自殺すればいいと言ってもいいのかもしれませんが、とはいえ、やはり死ぬのは最悪なことなので、そんなことが出来るはずもなし。



とすると、時間を止めることよりもむしろ「ある出来事を今から過去に移行させないこと」が大事な気がします。
例えば、祭りが終わってしまうのが悲しいのであれば祭りを絶えず延々と続けるみたいな感じで。
楽しい状態が永遠に続いてくれれば時間の経過も多分恐ろしいことではなくなるでしょう。
ならば「楽しいことを延々とし続けて生きよ」という規範にしたがって生きるのが時間の経過の問題を解決する唯一の選択肢なのかもしれません。
(とはいえ、現実的に考えて楽しい状態を永続させるというのは不可能に近いわけですが・・・。)

時間 虚しさ

24 2017

生きることそれ自体の価値

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について思ったことがあるので、今回はこのことについて少し書いておく。

前回の記事で私は死の恐怖の克服について書いた。
そして、その結論は「死の恐怖を克服することは可能でありうる」というものだった。

「自分の人生を充実させれば、その人生は短く終わろうと良いものであることに変わりないのだから、は怖くない」
この結論に納得できるか出来ないかは人によるにせよ、自分は当時素直にそう感じたのだ。

だが、自分の人生を充実させて死の恐怖を解消するという方法には、実際のところ不十分な点があるのではないか、と思うようになった。
よって本記事ではこの点について簡潔に書いておく。



まずがなぜ死ぬ人にとって悪いのか?を確認しておくと、その害悪は私には二種類あるように感じられる。
一つは人生で得るべきものを不十分にとどめてしまうという悪(害悪①)。
そして、もう一つは無限にありえたはずの可能的な未来を奪ってしまうという悪(害悪②)である。

両者は似てはいるが、私は厳密に区別する必要があると感じる。
なぜなら、前者は過去の利益に関する悪だが、後者は未来の利益に関する悪だからだ。
(前者の害悪よりも後者の害悪が切実に感じられるのは、恐らく我々が過去よりも未来の方を重視していることによるだろう。)

そして本題に入る。

何故人生を充実させても死の恐怖は克服できないのか。
それは私が思うに、仮に人生を充実させても、害悪①をなくすことができるだけで、害悪②をなくすことは決して出来ないからだ。

もし自分の人生を充実させて、自分がほしい物・ほしい経験を十分に得られれば、自分に死が差し迫った状況で「まだやりたいことがあったのに・・・」「まだ経験したいことがあったのに・・・」といった無念を抱くことはないだろう。
だが、仮に人生を充実させても「もっと生きたいのに・・・」という無念を抱くことは避けられないのではないか。

このように言うと、十分に幸福を得た人には未来なんか必要ないだろう、と言いたくなる人がいるかもしれない。

だが、私には「生きて得られる幸福」とは別に「生きることそれ自体の幸福」というものがあるように感じられる。
そして前者は十分得られる場合があるかもしれないが、後者に関しては十分得られることが永遠にないのではないだろうか。
(つまり分かりやすく言うと、何千年生きようと、何億年生きようと、生きた期間は十分になるわけではなく、生は一定の価値を常に持ち続けるのではないか、ということだ。)

こういうと更に、人生の価値はその内容に依存するのであって、生きていること自体は善いことでも悪いことでもない、と言いたくなる人がいるかもしれない。
だが人生の内容がどうあれ、死を悪足らしめる価値が生にはあるのではないか、と私は思う。

世の中には未来に「何かをしたい」「何かを経験したい」という希望を全く持たない人は恐らく大勢いる。
だが、彼らが希望を持たないにもかかわらず尚死を選ばない理由は、やはり生それ自体に価値があるからだろう。

こう言うと「死に痛みが伴うから彼らは死を避けるのだ」とか「彼らは実は、もしかしたら未来に何か起こるかもしれないと期待していて、だから死を避けるのだ」と言いたくなる人がいるかもしれない。

もちろんこれらの二つも人生に希望を持たない人が死を避ける理由の主なものではあるだろう。
だが仮に痛みが伴わないとしても、未来に特に面白いことが何も起こらないとしても、多くの人は抹殺されることを拒絶するだろう。
このことは生それ自体に死んでいる状態にはない特別な価値があることを物語っているのではないか。
(仮に抹殺されることを望んだとしても、その人は消極的に死を選んだだけで、それを積極的に望んだわけではないだろう。)



生それ自体に特別な価値があるとすると、死はやはり、依然として全ての人にとって災厄であり続けるだろう。
そして、仮に人生を充実させても、害悪①を解消できるだけで、害悪②を解消することはできない。

この考えが正しいとすると、前回私が提示したは死の恐怖の克服法は不十分なものであり、これを実践してもあまり意味はないということになるのかもしれない。
もし害悪①だけでなく害悪②までをも解消しようとするならば、我々は「人生を充実させる」以外に更に別の方法を探る必要があるだろう。

そして実は、「人生を充実させる」という死の恐怖の克服法にはまだ他にもいくつかの問題があるのだが、この点については以降の記事で触れていく。

死の恐怖 人生の価値

23 2017
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どうもこんにちは、ぶち丸です。
タイトル通り、過去の記事を地道にいじくっていたので、簡単にいじくった内容をここでまとめておきます。



死の恐怖の克服法について

過去の記事の内容をいくつか消去して、別の内容に差し替えました。
そして、差し替えた内容はおおむね「死の恐怖の克服法」に関するものです。

普段我々は自分がぬことなど忘れて暮らしています。
しかし、は誰も逃れることができない事態であり、我々はもし仮に今んでしまうと、
「ありえた未来が生きられない」
「世界に存在できなくなる」
「経験が永遠に消滅する」
・・・などの損害を(おそらく)被ることになります。

が全ての人にとって切実な問題であるのは自明でしょう。
死の恐怖はふとした瞬間に、何でもないときに我々を襲ってくる厄介なものです。
中には日常をうまく送れないほどに深刻な不安を抱く人もいるかもしれません。
少なくとも私はそうです。私は死ぬのが怖いです。
よって、この恐怖はどうすれば克服可能なのか?方法はあるのか?ということについて考え、そして記事を書いた次第です。

死の恐怖なんて克服可能なのか?という疑問を持つ人がいるかもしれません。
しかし、私が思うに死の恐怖というのは必ずしも絶対的なものではないので、(理論上)克服可能です。
一見死ぬことは上記のようなマイナス要素があるように感じられるのですが、しかしこのマイナスはあくまで我々の思考(心)が見出しているものにすぎません。
あくまで、体験が消滅することを我々が悪であると判断するから、それが悪であるということになるのです。
我々が何らかの要因によって死に悪を見出すことをやめれば、死の恐怖はおのずと払しょくされるでしょう。

だから改めて言いますが、死の恐怖は(理論上)克服可能です。
死の恐怖が解消するなどとはにわかに信じがたい人もいるかもしれませんが、しかし私はいくつかの解決策を提示してみようと思います。
方法ごとにその方法が妥当なものか吟味する記事を作っておきましたので、興味がある方は良かったらご覧ください。
(絶対に恐怖が解消するという保証はありません、あしからず。)



以下が各記事のページへのリンクです。
(※未完の記事は「書いてみたら内容がつまらなかった」、「他と内容が重複する」といった理由であえて完成させなかったものです。)

〇執着を捨てる系
QOL(生命の質)を意図的に落とす。
・自我の存在を否定する。(未完)
主観的視点を捨て、客観的な視点を持つ
自分をちっぽけと見なす。

〇放っておく系
自然に消えるのを待つ。
・いつ死ぬかわからないからまだ大丈夫だろう、と楽観する。(未完)

〇死を肯定的にとらえる系
死を喜ばしい出来事と見なす。
死は人生を有意味にすると考える。
(=死ぬことは不老不死よりはましと見做す)

〇考えないようにする系
何かに没頭する。
エピクロス主義
自殺する。

〇死を無害と見なす系
ルクレティウスの対称性論法
・死を睡眠と同一視する。(未完)
・独我論(未完)

〇死の存在を否定する系
・死後の世界の存在を信じる。
科学の進歩に期待する。
・歴史に自分が生きた証を残す(未完)

〇時間の見方を変える系
・現在中心主義(未完)
・タイムレス(未完)

〇割り切る系
寿命だから仕方ないと割り切る
他者の死について思いを巡らす。
・十分生きた、いつ死んでもいいと満足する。(未完)
・そもそも生は無いこともありえたのだから、仮に短い生であると感じても、あっただけましと考える。(未完)
自分が正しいと信じる生き方を貫く



これらの方法のどれか一つ、或いは複数を継続して実践すれば死の恐怖は克服できるかもしれません。
この方法が正しい、間違いとかではなく、あくまで考え方の一つとして見てもらえるとありがたいです。
(念のために言っておくと、書かれている内容=私の意見というわけでもありません。コロコロ考えが変わるので。)

個人的には今のところ「自分が正しいと信じる生き方を貫く」と「そもそも生は無いこともありえたのだから、仮に短い生であると感じても、あっただけましと考える。」のセットが一番しっくりきますね。

ただ、やはりいくら工夫をこらしたところで、死の恐怖はぬぐいがたいと感じる方もいるでしょう。
その場合は、死の恐怖の克服に関心を寄せるよりも、死の恐怖を抱きつつ生きるにはどうすれば良いのか?を模索したほうがいいかもしれません。

私の個人的な意見としては、死の恐怖を抱えつつ生きるという選択はアリだと思います。
なぜなら、死の恐怖はもちろん無いに越したことはないのですが、一方でこれが我々に人生が有限であることを気づかせてくれる役割を持っており、これが人生を大切にするためにはある意味不可欠だとも思うからです。

この考え方を最も象徴的に表現しているのは所謂「メメントモリ」でしょうか。
メメントモリとは、知っている人も多いと思いますが、「死を想え」という意味合いの警句です。
この言葉の解釈は様々でしょうが、文字通りに受け取るならば「時間は有限なんだから、大切にせよ」という警句として理解できます。
まあ、言っていることはもっともですよね。

少なくとも、人は死の恐怖を自覚すると目標に向かって一直線になるので、何かしら目標がある人はそっちのほうがいいでしょう。
もし死の恐怖を抱いたままでいい、という方がいらっしゃるならば、その方は上記の方法を実践する必要はありません。

・・・死の恐怖については、とりあえずまあそんな感じです。



・その他の記事

あと、他の全書き直しした記事も以下に載せておきます。
次の三つです。

人に好かれることが幸福であるとは限らない。
私の世界が唯一の世界ではないか?
結婚式に誘われる不幸

上記の記事以外にも細かいところを直した記事は一杯ありますが、もう面倒なので割愛します。

それにしてもホント、こんな誰も見ないブログの、しかも過去の記事をなんで必死に編集し続てるんでしょうね。
我ながらあきれるばかりです。



・気に入った曲のまとめ

あと、気に入った曲のまとめも作っておきました。
ジャンルは基本的にはメタルばっかになります。私の好みゆえに。

デスメタル/メロデスの名曲集
ブラックメタルの名曲集(00年代以降)
フォーク・アコースティック・アンビエント等の名曲集
ゴシックメタル/ドゥームメタルの名曲集
ポストブラックメタルの名曲集
ブラックメタルの名曲集(90年代以前編)

以前は一つの記事に動画7個くらいを張っていましたが、全体的にだいぶ増やしました。
もっと増やそうと思えば増やせるのですが、きりが無いので、「まあこれくらい」というところで止めておきました。
時間に余裕がある方は聴きましょう。おすすめばかりです。

あと、私はこんな名曲を知ってますよ!という方がいらっしゃったら、どしどしコメント欄にお書きください。
最近良い曲に飢えているので、心よりお待ちしております。



とりあえず記事の書き直しについてはまあそんな感じです。
この記事数の少ないブログでそんなに直すってことはほとんど全部書き直したんじゃないか!って突っ込む人がいるかもしれませんが、その通りです。ほとんど書き直しました。

いやー本当何したかったんでしょうね自分。
過去の記事の内容をすり替えるぐらいなら、普通過去の記事を削除してしまって新しい記事を作りますよね。

ただこのブログは絵と文章をセットで載せてるから、記事ごと消すというわけには中々いかないのです。
やはり絵は、ちゃんと書いた時期のポジションにおさまってないと落ち着かないのです。
まあこういう下らない拘りがあるから更新のペースが遅くなるんですが、こればっかりは私の性格によるものなので、もうしょうがない。

あと、こっからが一番馬鹿らしい話なのですが、過去の記事の修正は終わったわけではなくて、実はまだ6つほど直ってない記事があるのです。(爆)
まだあんのかよっていう。ほんと面倒な話です。

まあこれはほんと過去の記事をろくに仕上げられなかった私の責任なのですが、これからまたちょっと時間をかけて6つの記事を書き上げていこうと思います。
そして、差し替えが完了したらその模様はまた次の記事で説明します。

とりあえず今のところはそんな感じです。

死の恐怖

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死は全ての人にとって切実な問題であり続けてきたし、これからもあり続けるだろう。
人が存在し続ける限り、死は未来に必ず起きる事態であり、また全ての人にとって有害なものでありうる。
死はあくまで観念的なものにすぎないと強引に考えることもできよう。
だが仮にこれを幻想だと思い込もうとしても、現に周りの人が次から次へと死んでいっている以上、恐怖は払しょくしがたいものがある。

では、我々にとって死はなぜ恐ろしいのか。
我々が死を害悪と見做のは、結局のところ次のような理由によってである。
例えば、20年の人生幸福に生きた人物と80年の人生幸福に生きた人物がいたとしよう。
このようなケースで我々が前者を不幸であるとみなすのは、その人物が生きた期間が十分ではないからである。
つまり、生きた期間が短くなってしまうからこそ、死は我々にとって恐ろしいというわけだ。

では、死の恐怖・害悪を克服するにはどうすればよいのだろうか。
この問いに対する答えは様々なものがあるだろう。
ただ最近私は、人が死の恐怖・害悪を克服するには、「人生における全期間において、自分が正しいと思う生き方をつらぬくしかない」と考えるようになった。



上でも述べたように死は人生の長さを損ねるものではあるだろう。
だが、人生の価値とは長さで決まるのだろうか?
いやそうではない。
仮に長生きだとしても、その人生が善いものでなかったとしたら、一体長生きできたところで何だというのか。
仮に長生き出来なかったとしても、自分の信念を貫ければ人は無条件に幸福だし、また長生きであったとしても自分の信念を貫けなければ無条件に不幸であるに違いない。

私は人生の価値を決めるのは長さではなく質のみだと思う。
多くの人は80年の人生に比べ、20年しかなかった人生を不幸であると判断するだろう。
だが、たとえ20年で終わってしまったとしても、もし自分の信念を貫いた善い人生を歩んでいたならば、その人は不幸ではないと思う。

生きていればできる様々なことも、一度死んでしまえば決してできなくなってしまうののだから、死は悪に決まっていると考える人ももちろんいるだろう。
或いは、自分の信念を貫くには、幸福に生きるには人生の期間がそれなりになくてはならない、と考える人もいるかもしれない。
だが、死によって人生が短く終わってしまったとしても、その死によって人生が不幸なものであったということにはならない。
2個のおいしいビスケットが1個のおいしいビスケットよりも仮に優れていたとしても、1個のおいしいビスケットが善いものであることには変わりない。
人生も同じことだ。
善い人生を歩んでいる人には、たとえ死であっても損害を与えることは出来ないし、また彼を不幸にすることもできない。
仮に20年で終わってしまったとしても、幸福な人生を歩んでいたならば、我々は彼(彼女)が不幸であると決してみなすべきではない。
なぜなら、彼(彼女)の人生はあくまで善いものだったのだから。



だから改めて言うが、もし死の恐怖を克服するにはやはり自分の信念を徹底して貫いて、幸福に生き切るしかないと私は思う。
こういうのは死の恐怖を克服する方法としては、一見陳腐なものではあるのかもしれない。
だが、何周も遠回りしてたどり着いたこの方法は、不思議なことに私に大変よく馴染むのである。
もちろん死を全面的に無害であるとまだ見なせるようになったわけではない。
だがこの方法を実践すれば、死の恐怖は完全に克服できるのではないか、と最近ふと思うようになった。
(もちろん、自分の信念を常に貫くというのは容易なことではないとも思うが。)

死の恐怖 幸福 人生

22 2017
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我々は生きている間に死について思いを巡らせ、そのことによってしばしば悩みます。
例えば、病気などによって自らにどうしようもなく死が差し迫っているときや、身近な人が死んだりしたときは、死を有害視するのは当然のことでしょう。
或いは、自分が積み上げてきたものを無に帰してしまうがゆえに、死を有害視する人もいるかもしれません。

そして、死について思い悩むことは人生に支障をきたします。
上記の例に関して言えば、相当な努力が必要な目標を掲げている人が「どうせ死んでしまうのだ・・・」と、その目標を投げ出してしまうことが考えられるでしょう。
或いはまた、死が迫っている人が感じるであろう消滅の恐怖は計り知れないものがあるでしょう。
現に今健康な私ですら、死は恐ろしいですから。
死を恐れることによってもたらされる負担は、もしそれがないのであればそれに越したことはありません。



では、死を恐れないほうが得だからという理由で死後の世界を信じるのはありなのでしょうか。
死後の世界の存在を主張する人の中には、その理由で自らの主張を正当化する人がいます。
彼らの言い分は大まかにはこうです。

(死が消滅である場合)
死後の世界を信じている人(①)→生きている間に不安はない。そして死後に自分の過ちを知ることもない。よって幸福である。
死後の世界を信じていない人(②)→生きている間に不安にさいなまれる。そして死後に自分の正しさを知ることもない。よって不幸である。

(死が消滅ではない場合)
死後の世界を信じている人(③)→死後に自分の正しさを知る。おまけに生きている間に不安はない。よって幸福である。
死後の世界を信じていない人(④)→死後に自分の過ちに気づく。おまけに生きている間は不安にさいなまれる。よって不幸である。

(結論)
いずれにせよ、死後の世界を信じたほうが幸福である。

もし死に恐怖を感じないのだとしたら、その人は恐怖にさいなまれているよりは幸福であるのは確かでしょう。
しかし、この論証をそのまま鵜呑みにできるかというと、難しいものがあります。



まず一点、上記の論証では①のほうが②よりも優位であるとは、必ずしも言えないと思うのです。
確かに①の人は不安を感じているわけではありません。
その点で、①の人は不幸ではないように見えるのですが、やはりその人も消滅してしまうのだとしたら、すごく不幸であるように感じられるのですよね。
死んで消滅するならば、どっちにしろマイナスじゃんか、と。
むしろ自分の置かれている状況を正しく認識できていないのだから、その点ではある意味、②よりも①のほうがより不幸といえるかもしれません。

そしてもう一点、③のほうが④よりも上記の論証においては優位とされていますが、それもどうも私には疑わしいのです。
仮に死後の世界があったとして、そこがあることってそんなにいいことなんでしょうか?
死後の世界を信じている人は、「死後の世界は自分にとって善い世界である」と信じているがゆえに安心を感じているのでしょう。
もし死後の世界が地獄だったら、安心を感じることはできませんから。
しかし、それがどうも楽観的過ぎて、自分にはうさん臭く思えてしまうんですよね。
実際死んでみたら、死後の世界がこんなに酷い場所だったなんて!と思うこともありうるのではないでしょうか。
(死後の世界を素晴らしいと思ったほうが得なのだから、素晴らしいと思えばいいと言われたらそれまでですが。)



まあとはいえ、上でも述べたように、不安というのは一般的に見れば無いに越したことはないわけで、そういう意味で死後の世界を信じること、そしてその世界が素晴らしい世界であると信じることには一定の価値はあるのでしょうね。
しかし確かに理屈ではわかるんだけど、本気で死後の世界を信じられるかというと「う~ん・・・」という感じですね。個人的には。

死後の世界 価値