脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

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我々は普通、幸福な人物が早死にしてしまったような場合、彼は不幸であると考える。
このような判断はごく一般的なものであろう。
だが、我々は遅く生まれてしまったことによって、人が不幸であるとは我々は考えない。
そのため、我々の誕生前の非存在と死後の非存在に対する態度は非対称的なものであると言える。

では、我々はなぜ非対称的な態度をとらなければならないのだろうか?
我々は、生まれる前の非存在が悪ではないのだから、死後の非存在も同様に悪ではないと考えることも出来るのではないだろうか?
このような観点から、死を有害視する立場に対しては次のような批判が可能である。
その批判とは、すなわち「生まれる前の非存在が悪ではないのに、なぜ死後の非存在は悪でありうるのか」というものである。



生前の非存在が悪ではないのだから、死後の非存在も悪ではないという発想は、死について思いを巡らせたことのある人ならば、誰でも一度は浮かぶものだろう。
このありふれた主張の起源としてよく取り上げられるのは、ルクレティウスである。
彼は、次のように述べることによって、死後の非存在は全く恐れるに値しないと主張した。

「同様に又、ふり返って我々が生れる以前の永遠の過去の時代が、如何に我々とは無関係なものであるかを悟りたまえ。であるから、これは自然が我々の為に見せてくれる鏡であって、我々がやがて死に去った後の時代を示してくれるものなのだ。そこに何か恐ろしいと思うべきものが一体あるだろうか、何の陰気なものが見られよう、如何なる眠りよりも安らかなものがあるではないか?」
(ルクレティウス(1961)『物の本質について』(岩波文庫)、樋口勝彦訳、岩波書店、p152)

もし我々が常識に従い「死は悪である」と主張する場合、彼の主張に対して何らかの形で応答しなければならない。
そして、その応答の仕方は二つあるように思われる。
一つは(1)「実は生まれる前の非存在は死後の非存在と同様に悪である」と主張すること、
そしてもう一つは(2)「誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である」と主張することである。



(2)の方法を採用する場合は、二つの非存在が非対称的である理由を提示しなければならない。
対称性を解消するために採れるまず一つ目の方法は、「存在しない状態」が悪いのではなく、「存在しなくなること」が悪いと主張するというものである。
例えば、中島(2007)は以下の引用から分かるように、この方法で死の害悪を説明している。

「死を「死んでからの状態」に限定したうえでそれをまったくの無とみなすなら、そこには何ら恐ろしいものはないというわけです。しかし、死の本来の恐ろしさは、無で「ある」ことではなく、なぜかいったん存在してしまったものが無に「なる」ところにあるのです。」
(中島義道(2007)『死を哲学する』(双書哲学塾)、岩波書店、p13-14)

だが私が思うに、「存在しないこと」と「存在しなくなること」を区別することは、死の害悪を説明する上で意味がない。
確かに、生前の非存在は人が決して「なる」ことは無いものだが、死後の非存在はいずれ誰もが「なる」ものであるという点で、両者には違いはある。
しかし、通常の意味で「なる」という表現を使う場合、それはある特定の状態から別の特定の状態への変化を意味する。
そして、もし特定の状態に変化することが悪いとしたら、変化したのちの状態も同時に悪でなければならないはずである。

たとえば、カレーが腐ってしまうというケースについて考えてみよう。
このケースで起きている状態の変化は、腐っていないカレーの状態から、腐ったカレーの状態への変化である。
そして、変化後の状態が悪いからこそ、我々は腐ってないカレーから腐ったカレーへの状態の変化も悪であると考えるのである。
※1

変化した後の状態が全く悪くないのに、変化することのみが悪いというのは考えにくい。
よって、非存在化を悪であると主張する方法は決して有効とは言えないだろう。



その他にも二つの非存在の非対称性の説明の仕方には様々なものがある。
そして、私が知る限り、それらは大きく三種類分けることが出来る。
一つは①「時間の観点から非対称性を説明する方法」、一つは②「自己同一性の観点から非対称性を説明する方法」、そしてもう一つは③「二つの非存在の性質の違いから非対称性を説明する方法」である。
以下にそれぞれの細かい内容(A~G)を列挙してまとめよう。

①時間の観点から非対称性を説明する方法

(A)人は、過去の災いよりも未来の災いに対してより強い関心を持つ。
そして、死は未来の災いである。
故に、誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である。

(B)人は、過去の善いものには関心をもたず、未来の善いものにしか関心を持たない。
そして、死は未来の善いものを奪い去ってしまう。
故に、誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である。

(C)人類の進歩により、過去の世界で生きるよりも、未来の世界で生きる方が幸福度は高い。
そして、死は未来の世界で人が生きることを阻害する。
故に、誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である。

②自己同一性の観点から非対称性を説明する方法

(D)我々には「自分が自分であるために、過去が別様であってはならない」と考える傾向性(保存の要求)がある。
故に、誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である。

(E)ある人がより早く生まれた場合、その人は別人になってしまうため、誕生前の非存在はむしろ、ある人がある人であり続けるために必要である。
故に、誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である。

③二つの非存在の性質の違いから非対称性を説明する方法

(F)誕生前の無は私と世界を生じさせた無だが、死後の無は私と世界を生じさせない無である。
故に、誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である。

(G)誕生前の非存在は私が生まれたことによって完結したが、死後の非存在は二度と完結しない。
故に、誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である。

これらのいずれかを正当化できれば二つの非存在の非対称性は説明できるだろう。
ただ私は、ルクレティウスの主張を論駁するうえで(2)の「誕生前の非存在は悪ではなく、死後の非存在のみが悪である」という見解をとる必要はないと思う。
すなわち、(1)の「実は生まれる前の非存在は死後の非存在と同様に悪である」という見解を採れば、彼の言うように「誕生前の非存在が無害なのだから、死後の非存在も無害である」ということにはならない。
よって、私は(2)ではなく(1)の正当化を試みたいと思う。



(1)の主張をする場合、人にとって存在しないことは、それ自体で害悪であるということになる。
そして、ここで言う存在しないことには当然、一切の体験が生じない、生きている間の「夢も見ないほど深い睡眠状態」や「全身麻酔による完全な無意識状態」なども含まれる。
だが、これらを悪であるとする主張には多くの人が違和感を抱くかもしれない。
なぜなら、我々は、眠ったことによって自分が損害を被ったなどとは普通考えないからだ。

ネーゲル(1989)も次のように述べることによって、単純に非存在を悪であるとする主張を否定している。

「我々が死を嫌悪するのは、単にそれが人を長期に亙る非存在の状態に陥れるからではない。そのことを示す事実が二つある。第一は、すでに述べたように、われわれの大部分は生の一時的な中断を―たとえそれがかなりの長期に亙るものであっても―それだけでは不幸とみなさないだろう、ということである。もし、意識のある寿命の長さは縮めることなしに、人々を冷凍することに成功したとすれば、一時的な活動停止状態にある人を憐れむことは、不適切であろう。第二は、われわれは誰も生まれ落ちる以前には(あるいは母の胎内に宿る以前には)存在していなかったわけだが、そのことを不幸だとみなす人はほとんどいないという、という事実である。」
(トマス・ネーゲル(1989)「死」、『コウモリであるとはどのようなことか』、永井均訳、勁草書房、p5)

ネーゲルのこの批判に対して再反論をすることは可能である。
例えば、実際に我々が長期の冷凍に臨む場面を想定してみると分かるが、我々はそこで全く恐怖を感じないということは無いのではないだろうか?
仮に、これまで冷凍されてきた人物は皆生還出来ているとしよう。
そして、冷凍装置やそれの整備員にも何ら異常らしき異常は見当たらなかったとしよう。
ここで安心する人ももしかしたらいるのかも知れない。
だが、このような条件付きでも、もし私が初めて冷凍保存に臨む場合、私は冷凍されることに抵抗を感じると思う。



このように私が抵抗を感じる理由は、恐らく冷凍保存されることに慣れていないからであろう。
もし私が何回も、何十回も冷凍保存から生還することができれば、そのうち恐怖は感じなくなるはずである。
だが、まだ一度も冷凍を経験したことがない場合や、少ない回数しか冷凍を経験していない場合は、「もしかしたら、二度と目覚めることが出来ずに、死んでしまうのではないだろうか」という不安はぬぐえない。

普段の睡眠が害悪でないのだから、長期的な睡眠も害悪ではないのではないか、と考える人もいるのかもしれない。
だが私は、普段の短期的な睡眠も害悪であると考えることは可能であると思う。
なぜなら、仮にある出来事に害悪であると感じなかったとしても、それが実際には害悪であることはありうるからだ。
仮にあなたが、今まで一度も睡眠を経験したことが無かったとしよう。
そして、一度も睡眠したことが無いあなたが、これから初めて睡眠に臨むとしょう。
そのとき、仮に睡眠は悪いことではないと伝えられていたとしても、これを恐れることは十分ありうるのではないだろうか。
そして、自分が生還できない可能性があることに震えるのではないだろうか。



よくよく考えれば分かることだが、睡眠と言うのは実際のところ、しないで済むのならばそれに越したことは無い。
睡眠には様々なデメリットがある。
例えば、寝ている間は人は何ら体験を持つことが出来ないし、仮にやりたいことがあっても、眠気が襲って来たら、それを中断せざるを得ない。
たとえ睡眠が一時的であるとしても、その時間が生が途絶えている時間であることに変わりはなく、(生を絶対的に善と見なす限り)我々は、これを死と同様に有害であると見做すことは十分可能であろう。
また、寝ている間は自律性を人は持たず、外敵に襲われた場合、対処できないというデメリットもある。

もし寝ずに生きられるのならば、そちらを選択する人は多いのではないだろうか。
仮に睡眠せずに生きられる人の種族がいたとしてみよう。
その種族に比べ、我々は相対的には不幸であるということになるのではないだろうか。
我々は普段睡眠をとることに何の抵抗も感じないが、その理由は結局のところ、単純に寝ることに慣れてしまっているからである。
つまり、今まで何度睡眠をとってきても無事生還できたことによって、睡眠のあとには目覚められることが当たり前だと思い込んでいるからである。
だが、再び起きて自分の存在を確かめることが出来ないということは、可能性としてはいくらでもありうる。
そのため、睡眠や長期の冷凍保存が全く悪くないとは言えないと私は思う。



また、誕生前の非存在が悪でないというネーゲルの主張も間違いであると私は考える。
生前の非存在が当たり前のように無害であるとされているが、これは全くの無害であるというわけではない。
我々は誕生前の非存在を取り立てて恐れたりはしないが、仮に恐れていなくても、これが我々にとって悪であるということは十分ありうる。
実質的に遅く生まれたことによって我々は様々な体験をする機会を逃しているし、また、より前の時代に生まれた人のことを考えて彼らが羨ましいと感じるのは、そこまで反直観的ではないはずである。

誕生前の非存在の悪さは、次のような状況を想定すると分かりやすい。
仮にあなたが今まさにこの瞬間に、現在の状態のまま神によって創造させられた人物であるとしよう。
そして、その誕生したばかりのあなたが、自分の存在する前の過去に思いを巡らせるとしよう。
そのときあなたは、普段では感じられない誕生前の非存在の悪さがより強く感じられるのではないだろうか。

この点を踏まえると、仮に死後の非存在を有害であると見做すならば、誕生前の非存在もまた有害であると見做すのは妥当であろう。
ただし、仮に誕生前の非存在が悪であるとしても、その悪さは死後の悪さに比べれば劣っているように感じられるのは確かである。
そのため、もし両者の悪さに差があることを説明しなければいけない場合、我々は上記の(A)~(G)の中から適切なものを選ぶ必要がある。
ただいずれを選ぶにせよ、死後の非存在と同様に誕生前の非存在は悪なのだから、「誕生前の非存在が悪くないのだから、死後の非存在も悪くない」といった主張は、否定するべきだと私は考える。



※1 カレーのケースは移行後に対象が存在しており、アナロジーを用いるのは不適切ではないか、と批判したくなる人がいるかもしれない。
だが、移行後に対象がなくなるケースを想定しても、移行が悪であるためには、移行後の状態が悪であることは必要である。
例えば、あなたの家が爆発によって木っ端みじんになり、消滅してしまったケースを想定してみてほしい。
この場合でも、家がないことが生活を送るうえで悪い状態だからこそ、家がなくなることは悪いと言えるのではないだろうか。

ルクレティウス

17 2015

空虚

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全ての人間は不幸である

自分が意志したわけでもなく勝手に生まれさせられ
与えられた身体で快楽に溺れ操り人形になり
その上病気や不安、そして苦痛を目一杯味わい
どれだけ真面目に生きても、最後は死ななければならない

そして愛や芸術、利他主義に目覚めて人生をそれらに捧げたところで
結局死と運命の前では何の役にも立たず
愛する人々には次から次へと先立たれ
目先の快楽で自分をごまかし現実逃避するも
やがて全てに飽きて退屈な同じような毎日を過ごし
死のうと思っても怖くて死ぬこともできない

故に人生は全く生きるに値しない

後世に何か残したところでいずれは人類は滅亡するし
金をもうけて出来ることなど大したことは無く
自分の名を歴史に名を刻んだところで、結局名声など死んだら無いのと同じである

生きていることには何の意味もない

人生 不幸

16 2015

相互リンクの虚しさ

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相互リンクについて。
相互リンクとは2つのWebサイト間で、互いに相手サイトへのリンクを張り合う事です。
「相手と交流したい」とか「繋がりたい」とか、そういった名目で、片方の人がもう片方の人に「相互リンクしませんか?」と声を掛けます。
そして、そのもう片方の人が了解して、相互リンクというモノは成立します。

基本的にこのブログは、相互リンクOKの立場です。
ブログの一番上の記事にも書いてある通り、声かけてくれたら誰でもリンク欄に追加するようにしています。
人間性とか、ブログの方向性とかで選りすぐったりはしません。
今まで何人かの方が声をかけてくれて、彼ら全員のブログと私は相互リンクしています。
なぜなら、断る理由が特に無いのですから。
この根暗でマイナーなブログと相互リンクをしてくれるという奇特な方の誘いを、私は喜んでうけます。



しかし、この相互リンクは必ずしも綺麗な面ばかりあるわけでは無くて、どろどろした面も勿論あります。
というか、後者の方がはるかに多いかもしれません。

相互リンクは、表向きは「繋がりたい」とか「交流したい」とかいった名目で結ぶものです。
お互いにヘコヘコして、そこには健全な空気が漂ってるように一見見えます。
しかし、実際はそうでもないんですよね。
本当はつながりたいという目的だけではなく、より多くの人にブログを見てもらいたい!アクセス数稼ぎしたい!っていう思惑があるんですよね。

一方的に相手のサイトにリンクしたならば、その行為には紛れも無く「相手サイトと相手に対する敬意」があると言えるでしょう。
しかし、見返りを求めたらその時点で、汚さと言うか、傲慢さが漂って来てしまうわけです。
「お前がリンクしてきたら、私の方からもリンクしてやろう!」といった感じで。

だから相互リンクなど結局、私からすれば、見返りありきの安い繋がりにすぎません。
そこに本来的に健全なものは何一つ無く、一切その安い繋がりに期待をするべきではないでしょう。
ただ何もプラスの感情を持つことなく、坦々と相手のサイトへのリンクを張るべき、これが私の相互リンクに対する基本的な考えです。



そして、相互リンクにはもう一つ厄介な点があります。
それは、たちの悪いことに、こちらがリンクをしてしばらくすると、一方的にリンクを切ってくる人がいるということです。
リンク張ってしばらくして、向こうのサイト見たら「こっちへのリンク無くなってる!」といった具合に。

おそらくそういった人は、私に対して嫌悪感を抱いたがゆえに、リンクを取り除いたのでしょう。
ブログの内容や、私の人間性に不満があるなど、思い当たる節は幾らでもあります。
一般的な健全さからかけ離れた私の本質に暫くしてから気付く、おおよそ流れはこういった感じでしょう。

ただ、一方的にリンクを切るってのはあんまりじゃないですかね?
こっちはリンクを張り続けているにもかかわらず、黙って外すとか何様なんでしょう?
そして、この経験って一度や二度ではなく、何回もあるんですよ。
そのたびにリンクだけでなく、身を切られるような感じがします。
何度一方的に切られて辛い思いをしたことか・・・。
当時のことを思い返すと、失恋の記憶(一方的に相手に振られるような)さながらの悲しみを覚えます。

まあ今では、相互リンクは「ただ汚い思惑で成り立っているだけの、何の意味も無いつながり」と分かっているので、リンクを一方的に切られてもそこまで悲しくもないですが。
ただやっぱり、ちょっとは傷つくかな・・・。

相互リンク

10 2015

無とは何か

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我々は、「人はんだあとになる」という表現を安易に口にしがちです。
しかし、というものの実態が掴めないまま、その言葉を使い続けるのはあまりにも虚しい。
なので今回は、いずれ誰もが至るであろうについて私見を書きます。



まずによって至るは二種類に分類できるかと思います。
一つは相対的な、そしてもう一つは絶対的なです。

相対的な無とは、以前は居た人が今では居なくなった、という比較によって見出すことのできる無です。
これについて想像するのは簡単でしょう。
例えば、私がある人と嘗て会話などのやり取りをすることが出来たのに、何らかのきっかけ(例えば、身体の破壊など)でそれらが永遠に出来なくなってしまったとします。
この場合、私が「彼はんだ」と見做すのは当然のことです。
そして、このときまだ有である私が、一方的に比較を行い、んだ相手に見出す状態が相対的な無です。

しかし、相対的な無は私がぬことによって至る状態である、とは言えません。
なぜなら、それは自分が生きているということを前提して成り立っている無だからです。
私のは一切の視点の抹消であり、もし「私が死んだ後に、死んだ私と生きている人々やり取りすることが出来ないという状況」を想定するとしたら、自分が生きていることになり、自分が死んでいるという前提と矛盾します。
よって、自分の視点が後に一切残らない、そのような無こそが、私が死ぬと至る無であると、そのように考えねばなりません。



つまり、我々は自分の死について考える場合、相対的な無ではなく、むしろ絶対的な無の方に関心を向けなければいけません。
絶対的な無とは私がいずれ必ず至るであろう主観的な状態としての無です。
即ち、一切の感覚や知覚がシャットアウトされ、意識を永遠に失った状態としての無です。

ただ、絶対的な無について考えると我々は大きな壁にぶつかってしまいます。
というのは、まだ我々は一度も死というものを経験したことがないからです。
憶測だけであれやこれや(例えば地獄に行く等)と語るのは、簡単です。
しかし実際のところ、経験してない物事について確実なことを語るのは容易ではありません。



私は正直のところ、絶対的な無について語ることは誰にも出来ないだろうと考えています。
なぜならそれは、私たちの言葉の世界の外にある「何か」だからです。
(いや、そもそも何かという言葉を使うのも不適切かもしれませんが)

私は以前、絶対的な無について様々な妄想をめぐらせていました。
例えば小さい頃、私は死が「何も見えない真っ暗な世界に永遠に投げ込まれるような状態である」と思い込んでいました。
もしそれが事実であれば死は確かに非常に怖いものであると言えます。

ですが、当然この死後観は誤りです。
なぜなら、真っ暗な世界があるという状態は、観測者の存在を無意識に前提しており、無ではなく紛れもなく有だからです。
我々は死んでしまったら、黒という色や黒を認識する意識すら喪失します。
そのため、死後の世界が暗いという思い込みは、間違った論証から生じた誤謬と言えるでしょう。
(例:眼を閉じると暗い+死んだ人は目が見えない→死後の世界は暗い)



また最近では、私は「死とは永遠の眠りのようなものである」という勘違いもしていました。
我々は睡眠時、夢でも見ていない限り、意識を完全に喪失しています。
そして、起きた後も寝ている間の記憶は全く残っていません。
なので、睡眠はまるで私たちにとって小さな死のようなものではないか、という考えを持つ人もいるでしょう。

しかし、死んだ人と眠っている人が全く同じ状態にあると見做すのは早計です。
両者は他者との疎通が出来ないので、一見に通っていますが、そのあり方は全く異なっています。
なぜなら、睡眠は脳がまだ活動している状態で、死は脳がもう完全に停止している状態だからです。
この点から、睡眠状態が絶対的無であると断言することは我々にはできません。



そこで私は、「もし脳が一度停止してその後回復するという経験が出来たら、絶対的な無について語ることが出来るかもしれない」とも考えました。
脳が一度停止してその後回復する経験とはつまり、いわゆる臨死体験のことです。
臨死体験をした人は、脳が一時的とはいえ停止しています。
なので、そのような人物ならば、絶対的な無について具体的に言い表せるのでは?と以前の私は思ったのです。

しかし完全な死は不可逆的なものであり、当たり前ですが、一度その状態に陥ったら戻ってくるということは出来ません。
臨死体験などは、戻ってくることが出来たという点で、厳密な意味での死ではありません。
戻ってきたら、その時点でもう体験は生の一部となり、死の体験であるということは出来ないのです。
また、もし仮に絶対的な無の経験について語ることができたとしても、その経験は無の経験ではなく、語った瞬間無という名の有の経験になってしまいます。



以上のような考察を経て、私は、絶対的な無について語ることは出来ないのではないか、と考えているわけです。
我々は現在、無について何かを思い浮かべることすら一切許されていない状況にあります。
なので、「私が死んだら無になる。」という言葉を安易に発することは控えるべきかもしれません。
なぜなら、「私が死んだら無になる。」と言ったところで、何か言ったような気になっているだけで、実際何も言えてないのですから。

「あなたは死んで無になった。」と言うことは、相対的な無についての言及であり可能です。
しかし、いずれ私が必ず至る絶対的な無は言及不可能です。
それについて我々に出来ることは、おそらく誤った思い込みを排除することだけでしょう。
これが私なりの今のところの死についての結論です。