脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

23 2014
MAS99.png

今回は、古代の哲学者のエピクロスの提示するの克服法を見ていきましょう。
彼は次のように述べることによって、は我々にとって全く恐ろしくないことだ、と主張します。

「・・・は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしいのである、と言う人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。」
エピクロス(1959)『教説と手紙』(岩波文庫)、出隆・岩崎武雄訳、岩波書店、p67)

或いは、次の個所からも、彼の主張が象徴的に伺えます。
は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、我々が存するかぎり、は現に存せず、が現に存するときは、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。」 (同書、p67-68)



彼の主張のポイントは二つあります。
一つは「死が存在の抹消であると考えている」という点。
彼は唯物論的に世界をとらえています。
だから、人間の魂的部分(心)は肉体の死と同時に消滅するのだから、後には自己を構成するものは何ものこらない、というわけです。
この点は現代の我々の認識からそこまでかけ離れたものではないでしょう。

そしてもう一つのポイントは彼が快苦の経験のみが善悪(幸不幸)の決定要因であると考えているという点。
上記の死の定義に基づけば、死後にはいかなる苦痛の状態・経験もありません。
だから、苦痛以外に恐れるものは何もないのだから、別に死は何でもないと。
そして、苦痛が起きるわけでもないのにそれを不安がるのは愚かだと。こういう理屈です。

エピクロスは死なんかどうでもいいから、生きることの良さを味わえと言いたいのでしょう。
生きることにのみ関心を持ち死を完全に無視する、こういう生き方は一見魅力的であり、実践できるならぜひとも実践したいところです。



ただ、エピクロスの主張には問題がないわけではありません。
私が思うに、彼の主張には二つの点で問題があります。

まず一つ目の問題点は、殺人や自殺が全く問題では無くなってしまうということです。
通常我々は殺人が相手に重大な危害を加えることだと判断しています。
しかし、もし死んでしまうことに全く問題がないのであれば、場合によっては殺人が横行することにもなりかねません。

殺人は苦痛を与えるから危害を加えることなのだという人もいるでしょう。
確かに殺す際に苦痛を与るタイプの殺人であれば、エピクロスの基準からしても殺人は悪ということになります。
しかし寝ている間に全身麻酔を施して、人を強制的に安楽死させるのはどうでしょうか。
これは苦痛を加えていませんが、どう考えても相手に危害を加えていると言えるのではないでしょうか。
少なくとも私だったら寝ている間であっても殺されれるのは御免ですが、しかしエピクロスの基準で行けば、このような殺人は全く問題がないことになってしまいます。

そして、彼の主張のもう一つの問題点は安楽死したいときに死を選べないという点です。
例えば我々が不治の病にかかり、もう未来に何の希望もないとしましょう。
苦痛もぐんぐん耐えられないレベルに増してきていて、もう一刻も早く死にたいと思っている。
しかしエピクロスの基準でいけば、この場合であっても死は何でもないことなく、我々は死を選べないことになります。
もちろん、ここで「死なんかどうでもいい、生きることがすべてだ」と考えることは出来なくはないですが、私からすればそれは強がりにしか見えません。



エピクロスの主張は一面の真理がありますが、やはり納得しがたいものがあります。
もし彼の主張に問題があるとすれば、それは恐らく予期の不安を排除していることでしょう。
死は確かにを苦痛をもたらしたりはしません。
ですが、我々からすれば死は永遠の未来の抹消であるには違いないのです。

エピクロスの「死は何物でもない」という主張は一見魅力的ではあります。
しかし彼の主張は我々の認識を強引に改訂しようとしている側面があり、死の恐怖を克服する上であまり説得的なものとは言えないでしょう。

エピクロス 死の恐怖 哲学

06 2014

死は何故有害なのか

CF5.png

多くの人々は、事故や病気で大切な誰かが亡くなったりすると非常に悲しみます。
また多くの人々は自分が死ぬことを恐れ、生活の維持に異常に気を配ったり、金儲けに苦心したりします。
どうやら彼らは死に対して何か悪いイメージを持っているようです。

では、死は人を何か害するものなのでしょうか。
確かに私も死ぬのは怖いですが、死によって人は一体何を失うのでしょうか。



まず考えられるのが、他者との関係性です。
人は死ぬと、大切な人と一切やりとりすることが出来なくなります。
多くの人にとって大切な人との別れは、辛い出来事でしょう。

また死ぬと、趣味や仕事などやりたいことも一切人は出来なくなります。
仮に人生で達成したいことがあったととしても、死んだらそれはもう達成できません。

これらの理由で多くの人々が死を悪いものとみなすのです。

しかし私は、個人的に関係性が絶たれることをあまり問題視していません。
なぜなら、私は今までの全ての経験、出会いというものが、正直有っても無くてもどちらでも良かったと考えているからです。
同様に、これから絶対やっておきたいということも何一つありません。



そうすると、一見死は私から何か大切なものを奪うということは無いように思えます。
では、死は私を何も害さないのかというと必ずしもそうではありません。

死の最も恐ろしいところは、それが未知の現象であるというところにあります。
私はまだ一度も死を経験したことがないので、死について何も知りません。
だから、それが何か想像を絶する状況であることをあれやこれやと妄想しているのです。
そして、自分の知らない時に不意に其処に投げ込まれるのが恐ろしいのです。

09 2014
201405082359216be2.jpg

死が異様に恐ろしくなってしまったときの対処法はいろいろあると思うのですが、一番楽で有益な対処法は「何かに没頭する」というものでしょう。

死は結局のところいくら考えたところで、絶対回避不可能な事態であり恐れたところで何も意味がありません。
だから、そんなどうしようもないことを考えるより、どうにかしようがあることだけを考えよう!という選択肢が我々に開かれているわけです。

死の恐怖というのはつまるところ、あれこれ考えるから生じるのであって、何も考えなければ恐怖が生じることはないものです。
だから死の恐怖を克服するうえで「何かに没頭して、頭を空にする」というのは一番現実的な選択肢といえるでしょう。

何かに没頭するときに人が関心を向ける対象は様々なものがあります。
例えば次のような活動の数々はその典型でしょう。

・生活を豊かにすることに励む
・社会的な地位の向上
・社会の変革
・食欲・性欲などの快楽を満たす
・芸術・創作活動に没頭する。
・宗教的な修行や瞑想等
・金儲け
などなど・・・。

こういった活動に精を出している人ならば、少なくともその活動をしている間は死の恐怖から解放されることができるでしょう。
或いは快楽を追及することによって、死の恐怖を打ち消すほどの幸福を得られる場合ももしかしたらあるかもしれません。
(もういつ死んでもいい!それぐらい幸せだ!みたいな。)



ただ、この方法には二つの難点があります。

まず一つ目の問題は「いざ死が迫った時に、死の恐怖がぶり返してくるかもしれない」ということです。
実際のところ頭を空っぽにしたところで、自分が死ぬという問題が解決したわけではありません。
死の恐怖を忘れるということはただ単に問題を棚上げにしていることにすぎず、問題の根本的解決はやはりどうやったってできないものです。

忘れていようが忘れていまいが人は必ず死んでしまうのであり、そしてその死によって未来を永遠に奪われます。
たとえ何かに没頭したところで、その没頭自体は死の悪さを寸分も軽減しません。
だから、死が迫った人は仮にどれだけ快楽を得てきたとしても、やはり死の間際に死の恐怖に襲われるでしょう。
むしろ快楽を善と考えているからこそ、死が自分にとってより一層悪く感じられることも十分考えられます。
(死イコール未来の快楽の抹消ですから)

しかし、仮にこのような(死が迫った)場合でも、没頭を死ぬまで続けることが出来れば死の恐怖を一切感じないことは理論的には可能でしょう。
そういう場合はその没頭し遂げた人の勝ち逃げ?と言っていいのかもしれません。

ただ「何かに没頭する」という方法を実践したことによって、死の恐怖が本当に現実的に克服できるかというと、それはやはり疑わざるを得ません。
仮に本当に死の恐怖を克服できている人ならば、そもそも何かに没頭しよう!などとは考えないでしょう。
つまり何かに没頭している限り、その没頭している人は死の恐怖から逃れられてはいないのでは?と私には感じられるのです。

死の恐怖を感じて意図的に何かに没頭している限り、その没頭は結局のところ死の恐怖を感じていることの裏返しにすぎません。
だから、もし仮に死の恐怖を没頭によって抑え込もうとするならば、「没頭しようとする意志」それ自体すらも手放す必要があるでしょう。

そして、もしそのようなことが可能であるならば、人はその時はじめて死の恐怖を克服できるのかもしれません。
(もっとも自分の意志を捨て去るというのは、それはそれで私には恐ろしく感じられますが。)

19 2014

他人とは分かり合えない

Purity9.jpg

我々は普段、相手の気持ちを分かったような気になって生きています。
例えば、悲しんでいる人を見かけてその人を気遣ったり、殺人事件のニュースを見て被害者に同情したりなど、頻繁に他者の気持ちに対して共感をします。
これは、社会で生きていく上でごく当たり前のことです。
もしこれがなければ、社会はまず間違いなく崩壊するでしょう。

しかし、共感するということは本当に可能なのでしょうか?
相手が感じた痛みや、相手の感情を分かることなど可能なのでしょうか?
私にはどうも、不可能であるように思えてなりません。
つまり、他者への共感はすべて実は錯覚なのでは?という風に感じるのです。
それは以下の説明を読んでもらえれば、おおよそ分かっていただけるかと思います。



まず、他者と私はテレパシーでもない限り、感じているものを直接共有することは出来ません。
自分の情は自分しか感じ取ることはできませんし、また相手の情は相手しか感じ取ることができません。
だから、私は仮に他人に伝えたい気持ちがある場合、言語(身体言語を含む)を用いることによって何とかそれを伝えようとします。

しかし、どれだけ具体的に言い表そうと、私の情を伝えることなどできません。
なぜなら、言葉には私の情自体を指し示す機能が備わっていないからです。
言語は個人的なものでは無く、公共的なものでしかありません。
私の固有の情を指し示す言葉は、あらゆる言語に無いのです。

だから、私が情を他者に伝えるべく言語でいくら表現しようと、その心情は一般化されてしまいます。
私の固有の心情も、他者の心情も公共的な言語によって全てひとくくりにされてしまいます。
そして、私の思いはもう全く他者に伝わらなくなってしまうのです。

自らの心情から、他者の心情を想像することは出来ます。
この点から、大まかには分かるのではないか、と主張する呑気な人もいるかもしれません。
しかし、彼らは全く間違っています。
というのは、その想像はあくまで自分の心情に基づいた想像でしかなく、そこに他者の心情は全く含まれていないからです。
私の言葉を聞いた相手は、私の心情を分かったような気になることは出来ても、私の心情それ自体は全く把握できません。



・・・以上の理由で、私が他者と通じ合う手段など存在しないと言えるのです。
また他者の心が全く分からないということから、実は他人に心なんて無いのでは?と更に疑うこともできます。
もしこの世界が、一定の物理法則に基づいて成り立っているのであれば、心情を持たなくても、人間(というか身体)は心があるかのようにふるまうことも可能です。
その考えでいくと、「自分以外の人に実は心なんてないのでは・・・?」と疑うことも出来てしまいます。

ただこれは流石に極論(独我論)なので、私にしか心がないということは恐らくないでしょう。
しかし、心を持たない人が実は、世の中には結構ごろごろ存在してるかもしれません。
生まれつき身体や精神に障害がある方が、世の中には沢山います。
同様に「心がない」という障害を持っている人がいても、別に何らおかしいことでは無いのです。
だから、身近な人々がその障害を持っているということも、もしかしたらあるかもしれません。

共感