脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

30 2014

作者は褒めるに値しない

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たまに、私の作品を見た人の中に「ぶち丸さん、すごいですね」みたいな感想をくださる方がいます。
こんな辺境のブログに来ていただき、そのような温かい言葉をかけていただけるのですから、私にとっては本当にありがたいことです。

ただ、私が彼らの立場に立ってみると、「ぶち丸を称賛する」心理は正直よく分かりません。
いや、もっと言うと、あらゆる創作物の作者を称賛することが、私にとっては真面目に理解できません。
そもそも作者は、褒められるに値する存在なのでしょうか?



まず称賛が成立するためには「作品を作ったときの作者」と「褒める時の作者」が同一であると言えなければなりません。
だって、別人だったら、何も作っていない人が称賛されることになってしまいますから。
しかし、「作品を作ったときの作者」と「褒める時の作者」が同一であると確かめるのは大変難しいんじゃないでしょうか。

例えば、自分の友人が絵を描いているのを見るとします。
その絵を描いてるのは、常識的に考えれば、自分の友人自身です。
私もその考えにとりあえず間違いはないと思います。
では、その絵が出来上がって、しばらくして何処かに飾られることになった場合、我々はそこで絵と彼自身を見て、「この友人が以前、この作品を描いた」と断定できるでしょうか?

ここでまともな人であれば、ごく自然に「この友人が、以前この絵を描いた」と判断します。
そして、その根拠として彼らは、「絵を描いていた時の彼と今の彼の心理的特徴・身体的特徴が、似通っていること」を挙げるでしょう。
しかし極端なことを言えば、心理的特徴・身体的特徴などがあくまで似通っているだけで、実は今の友人は以前の友人とは同一の人物ではないとも考えられます。

例えば、その絵を描いた友人が、展覧会が始まる直前に、何ものかによって溶鉱炉に突き落とされ、跡形もなくなってしまったとします。
そして、その後すぐさま、特殊な技術によって、心理的特徴、そして身体的特徴がかつての彼と全く同一である偽物の彼が生み出されたとします。(荒唐無稽ですが)

この場合、常識的に考えれば、我々は偽物の彼が絵を描いた人物であるとは判断しないでしょう。
そうすると、心理的特徴や身体的特徴が似通っているだけでは、彼の同一性を確かめる根拠としては不十分と言うことになります。

そこで次に「身体を構成している物質が同一だから、彼は嘗ての彼と同一なのだ」、と主張したくなる人がいるかもしれません。
この基準をもってすれば確かに、上記のような「入れ替わった偽の彼と本物の彼が同一人物になってしまう」という問題は生じないでしょう。
しかし、この基準によっても、我々が以前の彼と今の彼を同一と言えるかどうかは定かではありません。
なぜなら、彼が絵を描いてから一定の期間以上たっていると、絵を描いた彼と今の彼は物質として同一ではなくなってしまうからです。
人を構成する物質は、新陳代謝によって数年ほどで丸ごと入れ替わってしまう以上、嘗ての彼と今の彼が同一であるかどうかは、物質的な観点からも定かではないのです。



とはいえ、以上は極端な議論なので、ここで哲学的な話を抜きにして、常識的見解を採用してみましょう。
つまり、個人は自己同一性を保ったまま存続し続けると仮定しましょう。
絵を描いた嘗ての彼と、今の彼は全くの同一人物です。
では、ここで我々はその彼の絵がすばらしいとき、彼を称賛するべきでしょうか?

私は正直そうは思えません。
仮に同一人物であるとしても、作者が褒められるべきであるというのは実はおかしな話なのです。
だって生みの親だからと言って、その人物を称賛するのはどう考えても異常ではないですか。
確かに、作品を生み出すのは作者です。
その作者無くして作品はありえなかったでしょう。
だから作品の鑑賞者たちは、感謝するような意味合いで作者を褒めるのだと思います。

ただ、作品の称賛は「作者」ではなく「作品自体」に向けられるべきなのでは?と私は思うのです。
美女を見てその親に感謝するなんてことは、普通しません。
もし我々が美女を見たとき、彼女の親ではなく彼女自身に対して称賛の言葉を掛けるでしょう。
だから作品についても同様で、我々は作者ではなく作品自体を称賛するべきなのでは?と思うのです。



以上を踏まえ、私は作者というものが本来褒められるに値しない存在だと考えます。
完成された時点で子である作品は独り立ちしており、親である作者とは、最早全く無関係なのです。
大勢の人々は、作品の素晴らしさと作者の素晴らしさを取り違えています。
現代では著作権というよくわからない概念が出来てしまってので、これらを混同する人がいるかもしれません。

本来芸術はそれ自体が目的だったはずなのに、いつの間にかお金を稼ぐための、或いは有名になるための手段に成り下がってしまいました。
しかし、我々はもっと芸術それ自体に愛を向けるべきではないでしょうか?

芸術 自己同一性 作者

19 2014

人間の価値

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この世には70億人以上の人間がいます。
また、私の暮らす島だけでも一億人以上の人間がいます。
そして、私はそれらの膨大な数の葦のたった一本にすぎません。

・・・私が昔から一番悩んでいたのはこのことなのだろうと思います。
つまり、大衆の中で個人価値は極めて薄いのです。
例えば、物の価値とはそれがどれくらい珍しいかによって決まります。
金銀財宝、それらは滅多にお目にかかれないからこそ珍しいのです。

しかし、現代社会には膨大な数の人間がいます。
少し歩けばいたるところに人間が見当たります。
この状況ではもう、個人価値というのは殆どゼロに等しいですよね?
だって、替えがいくらでも利いてしまうのですから。
かけがえのない人間など全くいるとは言えません。

そして、人間価値が非常に薄いこの現代に生まれたからこそ、私は苦しみを感じているのです。
まあ、人の少ない原始時代に生まれていたら幸福だったかと言うと、そうでもないんですけどね。
しかし現代人は便利な道具に満たされて一見幸福そうに見えますが、私からすれば殆ど不幸にしか見えません。

人間 社会 個人 価値

ネット上にある気に入った曲の動画をまとめた記事です。
今回は(90年代以前の)ブラックメタル編。

Emperor - The Loss And Curse Of Reverence(1997、Album:Anthems to the Welkin at Dusk)


歌曲 ブラックメタル

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自らが死ぬ、ということが果てしなく悪しき事態であると感じる人は多いでしょう。
ただ一方で、「死は人生を有意味にするうえで必要不可欠な善いものである」と考える人がいます。

これは恐らく不老不死のほうがよっぽど問題だ、という考えからでしょう。
仮に我々が不老不死であった時を想像してみてください。
その場合、我々は初めのうちは享楽にふけって生きるのかもしれませんが、やがてあらゆることに手を出し尽くして退屈に至るでしょう。
そして肉体的には死なないものの、精神的な死には至るでしょう。
だからこそ、有限でなければ人生は有意義なものにはならないのだ、と。こう主張する人がいるわけです。



確かに死は我々に生き方を変えさせる効果をもっていると言えるでしょう。
人は普通に平和に生きている限りでは、何ら切迫性をもちません。
しかし、いずれ終わりを迎えることを悟ると、相当数の人は「一度きりの、有限の人生なのにこのままでいいのだろうか」と生き方を変えるようになります。
例えば、ある人は「いつ死ぬのかわからないのだから、今のうちにやりたいことはやっておこう」といった具合に。
またある人は、「残される家族のために出来るだけの準備をしておこう」といった具合に。

こういう例は九死に一生を得た場合や周りの大切な人を失った場合などに顕著にみられます。
まあ重要なものの大切さは、失われた(或いは、失いそうになった)ことで初めて気づくようになるとも言いますし、彼らの態度変更は最もなものと言えるでしょう。

ただ、だからと言って死が善いことになるかというとそうでもありません。
実際無限に生きることが恐ろしいことだからと言って、別に死ぬことが良いことになるというわけではないでしょう。
無限に生き続けることが悪であると同時に、死も悪であると考えることは別に矛盾しません。
もし敵が自分が住む家を破壊したときに「家の大切さを気づかせてくれてありがとう!」と感謝したら、その人はただの大馬鹿者でしょう。

死は我々を限界づけ、未来を奪い去ってしまうものです。
だから、我々にとって依然としてこれは悪でしかありません。

そして、我々が一生懸命に生きる姿勢が必ずしも死によってのみ可能というのも疑問です。
実際、死なないとしても何らかの目的に向かって一生懸命努力するという姿勢を貫くことは可能です。
例えば、我々は過去には戻れないのだから一瞬一瞬を大切に生きようと考えることだってできなくはありません。
別に努力する動機付けはなにも死ばかりではないでしょう。
にもかかわらず、一体なぜ死をそんなに有難がったりすることができるというのでしょうか。

おまけに死それ自体は我々がどう生きるべきかについて何も教えてくれません。
仮に没主体的であったり、流行へ迎合しがちであったりといった意見堕落した生き方をしていたとしても、別に死がそういうことをするのをやめなよと言ってくるわけでもないでしょう。 
死を覚悟した後、同じような生き方を貫くのことが、だめだということにはなりません。
死を覚悟してなお「よし、このまま堕落して生きよう」と、こう考える人も当然いるわけです。



以上を踏まえると、死を有難がる理由は何処にもないように思われます。
それはただ、我々から未来を奪い去ってしまうだけで、何も与えてくれはしません。価値ゼロです。
むしろ死は人生の目標をことごとく打ち壊してしまうという点で、人のやる気を損ないかねないとすら言いうるでしょう。
死を覚悟すると人生は豊かになるといったような文句はしばしば耳にし、一見聞こえがよいものですが、我々はそれを斬って捨てるべきです。

死を覚悟することで死の恐怖は克服可能である、と考える人もいると思います。
しかし、もし死を克服しようとするのであれば、我々はそれを有難がるよりも、むしろ無視するような生き方を模索したほうがいいかもしれません。

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一見死は我々にとって大変な損失をもたらす悪であるように感じられます。
ですが実際のところ、死それ自体は人にとって全く悪ではありません。
あくまでその悪さは我々がそれに見出しているにすぎず、死それ自体に悪いという性質はないのです。

例えば、死を一切怖がらない異星人がいるという状況を想定してみてください。
我々の基準からすれば一見信じがたいですが、しかし我々はそのような存在者を想定することは可能です。

このような想定が可能であるのは我々の価値基準が緩やかであることに起因します。
我々の価値基準は物理現象や自然法則、例えば酸素と水素が組み合わさって水になるといったような現象よりもずっと偶然的で、必然性は全くありません。
だから死の恐怖というのは、あくまで相対的なものであり、「判断力を持つ者ならば必ず死を恐れるはずである。」なんてことはないのです。

結局のところ、我々の感じる死の恐ろしさ、死の悪さは死それ自体にあるのではなく自らのうちにあります。
すなわち上記にも書いた通り、死の恐怖は我々の判断力が生み出しているのです。
よって、この心をどうにかすることによって死の恐怖は和らげたり、或いは完全に抹消することができます。



心をどうにかする方法には様々なものがありますが、その方法の一つとして「自殺する」という選択肢をとることが挙げられるでしょう。
今回はこの方法が死の恐怖を克服するうえで適切なものかどうかを簡単に考えてみます。

まず、自殺してしまえば死の恐怖が無くなるというのは自明でしょう。
なぜなら、生命を途絶えさせれば自らの心がなくなり、同時に恐怖の根本原因を断つことができるのですから。
人は一度死んでしまえば心が無くなってしまうので、死の恐怖をより長期にわたって抱くことはなくなります。
そういう点で、自殺する、という選択肢をとることはメリットが全くないというわけではありません。

ただ実際に、死の恐怖を断つために自殺するという選択肢をとるのは極めて難しいでしょう。
というか、死の恐怖を断つために自殺する人が実在するかというと、私はそうは思いません。
恐らくその目的で自殺した人はこれまでの人類に一人もいないでしょう。

例えば、生きている間に死の恐怖を断つことと死んで恐怖を断つことを天秤にかけてみてください。
常識的に考えれば、両者を比較して、前者が望ましいと感じる人は多いのではないでしょうか?
仮に後者が望ましいという人が万が一いたとしても、その人物は自己欺瞞におちいっていると私には感じられます。
つまり、そういう人物は他に自殺したい根本的な動機があるにもかかわらず、それと「死の恐怖を克服したい」という動機をすり替えているのではないでしょうか。

死の恐怖は自殺のサブ的な原因にはなるかもしれませんが、自殺の原因となるのは基本的には病気・老い・人間関係・貧困の苦しみなどといったものです。
これらの要因が一切ないにもかかわらず死ぬのが怖いから自殺したい!と言う人がいれば、そのひとは本心からそう思っていると言っていいのかもしれませんが、そういう人が実際にこの地球上に存在したことがあるとは、やはりにわかに信じがたいものです。
大体自殺しようとする動機に死の恐怖の克服を据えている人も、自分が幸福になってしまえば、死の恐怖も簡単に忘れ去ってしまうものですから。



以上を踏まえると、「死の恐怖を克服するために自殺する」という選択は現実的なものではなく、あくまで理論的なもの(実践的ではないもの)にすぎないと我々考えるべきでしょう。
すなわち死の恐怖を克服するために死ぬ、というのは単に口だけのことであって、現実に生きる我々とは無関係な全く空虚な価値判断にすぎません。
よって死の恐怖を克服する際には他の方法を模索したほうが、もっと言えば生きている間に死の恐怖を払しょくする方法を模索したほうが賢明であると私は考えます。

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今回は、古代の哲学者のエピクロスの提示するの克服法を見ていきましょう。
彼は次のように述べることによって、は我々にとって全く恐ろしくないことだ、と主張します。

「・・・は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしいのである、と言う人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。」
エピクロス(1959)『教説と手紙』(岩波文庫)、出隆・岩崎武雄訳、岩波書店、p67)

或いは、次の個所からも、彼の主張が象徴的に伺えます。
は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、我々が存するかぎり、は現に存せず、が現に存するときは、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。」 (同書、p67-68)



彼の主張のポイントは二つあります。
一つは「死が存在の抹消であると考えている」という点。
彼は唯物論的に世界をとらえています。
だから、人間の魂的部分(心)は肉体の死と同時に消滅するのだから、後には自己を構成するものは何ものこらない、というわけです。
この点は現代の我々の認識からそこまでかけ離れたものではないでしょう。

そしてもう一つのポイントは彼が快苦の経験のみが善悪(幸不幸)の決定要因であると考えているという点。
上記の死の定義に基づけば、死後にはいかなる苦痛の状態・経験もありません。
だから、苦痛以外に恐れるものは何もないのだから、別に死は何でもないと。
そして、苦痛が起きるわけでもないのにそれを不安がるのは愚かだと。こういう理屈です。

エピクロスは死なんかどうでもいいから、生きることの良さを味わえと言いたいのでしょう。
生きることにのみ関心を持ち死を完全に無視する、こういう生き方は一見魅力的であり、実践できるならぜひとも実践したいところです。



ただ、エピクロスの主張には問題がないわけではありません。
私が思うに、彼の主張には二つの点で問題があります。

まず一つ目の問題点は、殺人や自殺が全く問題では無くなってしまうということです。
通常我々は殺人が相手に重大な危害を加えることだと判断しています。
しかし、もし死んでしまうことに全く問題がないのであれば、場合によっては殺人が横行することにもなりかねません。

殺人は苦痛を与えるから危害を加えることなのだという人もいるでしょう。
確かに殺す際に苦痛を与るタイプの殺人であれば、エピクロスの基準からしても殺人は悪ということになります。
しかし寝ている間に全身麻酔を施して、人を強制的に安楽死させるのはどうでしょうか。
これは苦痛を加えていませんが、どう考えても相手に危害を加えていると言えるのではないでしょうか。
少なくとも私だったら寝ている間であっても殺されれるのは御免ですが、しかしエピクロスの基準で行けば、このような殺人は全く問題がないことになってしまいます。

そして、彼の主張のもう一つの問題点は安楽死したいときに死を選べないという点です。
例えば我々が不治の病にかかり、もう未来に何の希望もないとしましょう。
苦痛もぐんぐん耐えられないレベルに増してきていて、もう一刻も早く死にたいと思っている。
しかしエピクロスの基準でいけば、この場合であっても死は何でもないことなく、我々は死を選べないことになります。
もちろん、ここで「死なんかどうでもいい、生きることがすべてだ」と考えることは出来なくはないですが、私からすればそれは強がりにしか見えません。



エピクロスの主張は一面の真理がありますが、やはり納得しがたいものがあります。
もし彼の主張に問題があるとすれば、それは恐らく予期の不安を排除していることでしょう。
死は確かにを苦痛をもたらしたりはしません。
ですが、我々からすれば死は永遠の未来の抹消であるには違いないのです。

エピクロスの「死は何物でもない」という主張は一見魅力的ではあります。
しかし彼の主張は我々の認識を強引に改訂しようとしている側面があり、死の恐怖を克服する上であまり説得的なものとは言えないでしょう。

エピクロス 死の恐怖 哲学