脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

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09 2014

宇宙の外に行く方法

Nadir90.jpg

私は、積極的な外出に全く興味がありません。
即ち、明確な目的がある場合を除き、必要以上の外出を私はしません。
なので、近所に外出するとしても、本当に必要な場合以外は避けていますし、もう長い間自分が暮らす地域からは離れたことはありません。
恐らく、私の人生は今後もこのような状態が延々と続くでしょう。
普通の人であれば、外出をし、様々な経験を楽しむのは当然のことなのかもしれません。
しかし、もうこの地球上に私が行くべき場所は無い気がするのです。



ただ、私にはたった一つだけ行きたい場所があります。
それは、この宇宙の外です。
「あほか」と思うかもしれませんが、結構本気です。
私は空を見上げては、「このまままっすぐ延々と飛んできたい・・・」とか、「宇宙の外に行ってみたい・・・」とか、幼いころから何度も考えてきました。

そしてその思いは今でも変わっていません。
私にとって宇宙の外は長い間たった一つの憧れの場所なのです。
まあ未知の領域には誰もが関心を持っていると思うので、私の考えはそこまで常識に反しているわけではないでしょう。

しかし当然のことながら、其処に行くのは簡単なことではありません。
なぜなら、宇宙があまりに広すぎるため、外に脱出するには時間がかかりすぎるからです。
正確な距離はわかりませんが、最新の研究では?宇宙の外まで何百億光年もの距離があると言われています。
その距離を移動するには、私の寿命はあまりにも短すぎますし、また移動手段もありません。
なのでおそらく、私は生きている間にどうやっても宇宙の外に行くことは出来ないでしょう。



昔私は、人工知能と人体冷凍保存技術があればそこまで行けるかもしれないと考えました。
どういう方法かというと、まずコールドスリープ状態にした私の身体を宇宙船にのせ宇宙に向けて発射します。
そして、人工知能に隕石回避などの操作をしてもらい、目的地にたどり着きそうになったら、そこで人工知能に私を起こしてもらうという方法です。
この方法であれば、どんなに遠い距離でも、生命を維持したまま、宇宙の果てまで到達することが出来ます。

しかし肝心な問題として、どうやって宇宙船や人工知能を動かすエネルギーを供給し続けるのか、というものがあります。
もし太陽のようなエネルギーを発し続ける恒星が、宇宙船から一定の距離内にあれば、エネルギーの問題は解消されるかもしれません。
しかし、実際にはそのような状況は現実的ではなく、何百億光年もの距離をそのような恒星無しで移動するには、永久機関でもない限り不可能です。

また宇宙線を防いだりなど解決しなければいけない問題は他にも山程あります。
これらの問題は、将来的には技術的な進歩によって解消されるかもしれませんが、私が生きている間は恐らく無理でしょう。
ただもし、生命と言うか、意識を末永く持続させる技術が開発されれば、私が宇宙の果てまで行く技術が開発されるまで、私が存続し続けることは可能かもしれませんが。

宇宙

06 2014

創作者は嘘をつかないのが肝要

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創作する人は、ほぼ例外なく他者に自らの作品を見せたがります。
もしかしたらごく一部、一生他人に作品を見せずに死んでいく人もいるかもしれません。
しかし、大半の人はそうではないでしょう。
多くの芸術家は美術館で自分の作品を展示してもらったり、画集を出版したりしています。
また現代では、ネット上で(私を含む)無数の人々が作品を公開しています。
何故(私を含む)創作する人々は様々な方法を使って、作品を披露したがるのでしょうか?



私が思うに、作品を他人に見せる動機は自己愛以外あり得ません。
つまり誰もが必ず、「自分が好きだから」作品を他者に見せようとするのです。
お金がほしいとか、表現を見せつけたいとか、有名になりたいとか、認められたいとか、種類は違えど、すべて動機は自己愛の一言にまとめることが出来ます。

一部の絵描きは作品を公開する理由を訊かれて、「人を感動させたいからです」とか、「芸術を通して社会に貢献したいからです」とか、歯が浮くようなことを口にしますが彼らは全員嘘つきです。
なぜなら、彼らもまた「他者ではなく自分が人を感動させること」とか、「他者ではなく自分が芸術を通して社会に貢献したい」とか、自分がなすことに強いこだわりを持っているのですから。
自分が!自分が!と主張するのは典型的な自分大好き人間の特徴です。
自分が謙虚であると見せかけている人は、その謙虚さによって自分の価値を暗に高めようとしているという点で、大変な自分大好き人間であるといえるでしょう。



しかし、自己愛をもつことや傲慢であることが絶対的に悪であるかというと、必ずしもそういうわけではありません。
むしろ創作する人は、謙虚であるよりまず傲慢でなければならないでしょう。
なぜなら、自己愛や傲慢さは素晴らしい作品の産出に必要不可欠なのですから。
自分に必要なあらゆるものを吸収しつくして素直に吐き出すからこそ、素晴らしい作品は生み出されるのであって、そもそも自己愛がなかったら誰も絵を描く気すら起きません。

だから、絵描きが自己愛を持つことは何の問題もありません。
「私は自分が好きで他人に作品を見てほしい!見せつけたい!」とか、「金のために作品を公開しています」とか、本音を正直に言う人々は、むしろ尊敬に値します。



ただ、嘘を付くのはやめるべきだと私は思うのです。
人のため世のために絵を公開する人は、本音を言えばいいと思うのです。
彼らは明らかに謙虚な姿勢を貫き、自らの人格をウリにしています。
しかし、それは作品の価値と全く無関係です。
多くの人々は作者の人格で作品の質を判断してしまいがちですが、作者がいい人でも作品が素晴らしいかというと、そういうわけではありません。

本音を隠さないこと、まずこれが一流の創作者になるための必須条件でしょう。
もちろん素直であれば必ずいい作品ができるというわけでもありません。
ただ、自分の感じたものを押し殺していたら、いい作品などできるはずもないでしょう。
だから、言葉を出す機会があれば本音を隠さないこと、一流の創作者を目指す者はまずこれを必ず心がけるべきです。

芸術

30 2014

作者は褒めるに値しない

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たまに、私の作品を見た人の中に「ぶち丸さん、すごいですね」みたいな感想をくださる方がいます。
こんな辺境のブログに来ていただき、そのような温かい言葉をかけていただけるのですから、私にとっては本当にありがたいことです。

ただ、私が彼らの立場に立ってみると、「ぶち丸を称賛する」心理は正直よく分かりません。
いや、もっと言うと、あらゆる創作物の作者を称賛することが、私にとっては真面目に理解できません。
そもそも作者は、褒められるに値する存在なのでしょうか?



まず称賛が成立するためには「作品を作ったときの作者」と「褒める時の作者」が同一であると言えなければなりません。
だって、別人だったら、何も作っていない人が称賛されることになってしまいますから。
しかし、「作品を作ったときの作者」と「褒める時の作者」が同一であると確かめるのは大変難しいんじゃないでしょうか。

例えば、自分の友人が絵を描いているのを見るとします。
その絵を描いてるのは、常識的に考えれば、自分の友人自身です。
私もその考えにとりあえず間違いはないと思います。
では、その絵が出来上がって、しばらくして何処かに飾られることになった場合、我々はそこで絵と彼自身を見て、「この友人が以前、この作品を描いた」と断定できるでしょうか?

ここでまともな人であれば、ごく自然に「この友人が、以前この絵を描いた」と判断します。
そして、その根拠として彼らは、「絵を描いていた時の彼と今の彼の心理的特徴・身体的特徴が、似通っていること」を挙げるでしょう。
しかし極端なことを言えば、心理的特徴・身体的特徴などがあくまで似通っているだけで、実は今の友人は以前の友人とは同一の人物ではないとも考えられます。

例えば、その絵を描いた友人が、展覧会が始まる直前に、何ものかによって溶鉱炉に突き落とされ、跡形もなくなってしまったとします。
そして、その後すぐさま、特殊な技術によって、心理的特徴、そして身体的特徴がかつての彼と全く同一である偽物の彼が生み出されたとします。(荒唐無稽ですが)

この場合、常識的に考えれば、我々は偽物の彼が絵を描いた人物であるとは判断しないでしょう。
そうすると、心理的特徴や身体的特徴が似通っているだけでは、彼の同一性を確かめる根拠としては不十分と言うことになります。

そこで次に「身体を構成している物質が同一だから、彼は嘗ての彼と同一なのだ」、と主張したくなる人がいるかもしれません。
この基準をもってすれば確かに、上記のような「入れ替わった偽の彼と本物の彼が同一人物になってしまう」という問題は生じないでしょう。
しかし、この基準によっても、我々が以前の彼と今の彼を同一と言えるかどうかは定かではありません。
なぜなら、彼が絵を描いてから一定の期間以上たっていると、絵を描いた彼と今の彼は物質として同一ではなくなってしまうからです。
人を構成する物質は、新陳代謝によって数年ほどで丸ごと入れ替わってしまう以上、嘗ての彼と今の彼が同一であるかどうかは、物質的な観点からも定かではないのです。



とはいえ、以上は極端な議論なので、ここで哲学的な話を抜きにして、常識的見解を採用してみましょう。
つまり、個人は自己同一性を保ったまま存続し続けると仮定しましょう。
絵を描いた嘗ての彼と、今の彼は全くの同一人物です。
では、ここで我々はその彼の絵がすばらしいとき、彼を称賛するべきでしょうか?

私は正直そうは思えません。
仮に同一人物であるとしても、作者が褒められるべきであるというのは実はおかしな話なのです。
だって生みの親だからと言って、その人物を称賛するのはどう考えても異常ではないですか。
確かに、作品を生み出すのは作者です。
その作者無くして作品はありえなかったでしょう。
だから作品の鑑賞者たちは、感謝するような意味合いで作者を褒めるのだと思います。

ただ、作品の称賛は「作者」ではなく「作品自体」に向けられるべきなのでは?と私は思うのです。
美女を見てその親に感謝するなんてことは、普通しません。
もし我々が美女を見たとき、彼女の親ではなく彼女自身に対して称賛の言葉を掛けるでしょう。
だから作品についても同様で、我々は作者ではなく作品自体を称賛するべきなのでは?と思うのです。



以上を踏まえ、私は作者というものが本来褒められるに値しない存在だと考えます。
完成された時点で子である作品は独り立ちしており、親である作者とは、最早全く無関係なのです。
大勢の人々は、作品の素晴らしさと作者の素晴らしさを取り違えています。
現代では著作権というよくわからない概念が出来てしまってので、これらを混同する人がいるかもしれません。

本来芸術はそれ自体が目的だったはずなのに、いつの間にかお金を稼ぐための、或いは有名になるための手段に成り下がってしまいました。
しかし、我々はもっと芸術それ自体に愛を向けるべきではないでしょうか?

芸術 自己同一性 作者

19 2014

人間の価値

WeltschmerzIII.jpg

この世には70億人以上の人間がいます。
また、私の暮らす島だけでも一億人以上の人間がいます。
そして、私はそれらの膨大な数の葦のたった一本にすぎません。

・・・私が昔から一番悩んでいたのはこのことなのだろうと思います。
つまり、大衆の中で個人価値は極めて薄いのです。
例えば、物の価値とはそれがどれくらい珍しいかによって決まります。
金銀財宝、それらは滅多にお目にかかれないからこそ珍しいのです。

しかし、現代社会には膨大な数の人間がいます。
少し歩けばいたるところに人間が見当たります。
この状況ではもう、個人価値というのは殆どゼロに等しいですよね?
だって、替えがいくらでも利いてしまうのですから。
かけがえのない人間など全くいるとは言えません。

そして、人間価値が非常に薄いこの現代に生まれたからこそ、私は苦しみを感じているのです。
まあ、人の少ない原始時代に生まれていたら幸福だったかと言うと、そうでもないんですけどね。
しかし現代人は便利な道具に満たされて一見幸福そうに見えますが、私からすれば殆ど不幸にしか見えません。

人間 社会 個人 価値

ネット上にある気に入った曲の動画をまとめた記事です。
今回は(90年代以前の)ブラックメタル編。

Emperor - The Loss And Curse Of Reverence(1997、Album:Anthems to the Welkin at Dusk)


歌曲 ブラックメタル

EmptinessPt15.jpg

自らが死ぬ、ということが果てしなく悪しき事態であると感じる人は多いでしょう。
ただ一方で、「死は人生を有意味にするうえで必要不可欠な善いものである」と考える人がいます。

これは恐らく不老不死のほうがよっぽど問題だ、という考えからでしょう。
仮に我々が不老不死であった時を想像してみてください。
その場合、我々は初めのうちは享楽にふけって生きるのかもしれませんが、やがてあらゆることに手を出し尽くして退屈に至るでしょう。
そして肉体的には死なないものの、精神的な死には至るでしょう。
だからこそ、有限でなければ人生は有意義なものにはならないのだ、と。こう主張する人がいるわけです。



確かに死は我々に生き方を変えさせる効果をもっていると言えるでしょう。
人は普通に平和に生きている限りでは、何ら切迫性をもちません。
しかし、いずれ終わりを迎えることを悟ると、相当数の人は「一度きりの、有限の人生なのにこのままでいいのだろうか」と生き方を変えるようになります。
例えば、ある人は「いつ死ぬのかわからないのだから、今のうちにやりたいことはやっておこう」といった具合に。
またある人は、「残される家族のために出来るだけの準備をしておこう」といった具合に。

こういう例は九死に一生を得た場合や周りの大切な人を失った場合などに顕著にみられます。
まあ重要なものの大切さは、失われた(或いは、失いそうになった)ことで初めて気づくようになるとも言いますし、彼らの態度変更は最もなものと言えるでしょう。

ただ、だからと言って死が善いことになるかというとそうでもありません。
実際無限に生きることが恐ろしいことだからと言って、別に死ぬことが良いことになるというわけではないでしょう。
無限に生き続けることが悪であると同時に、死も悪であると考えることは別に矛盾しません。
もし敵が自分が住む家を破壊したときに「家の大切さを気づかせてくれてありがとう!」と感謝したら、その人はただの大馬鹿者でしょう。

死は我々を限界づけ、未来を奪い去ってしまうものです。
だから、我々にとって依然としてこれは悪でしかありません。

そして、我々が一生懸命に生きる姿勢が必ずしも死によってのみ可能というのも疑問です。
実際、死なないとしても何らかの目的に向かって一生懸命努力するという姿勢を貫くことは可能です。
例えば、我々は過去には戻れないのだから一瞬一瞬を大切に生きようと考えることだってできなくはありません。
別に努力する動機付けはなにも死ばかりではないでしょう。
にもかかわらず、一体なぜ死をそんなに有難がったりすることができるというのでしょうか。

おまけに死それ自体は我々がどう生きるべきかについて何も教えてくれません。
仮に没主体的であったり、流行へ迎合しがちであったりといった意見堕落した生き方をしていたとしても、別に死がそういうことをするのをやめなよと言ってくるわけでもないでしょう。 
死を覚悟した後、同じような生き方を貫くのことが、だめだということにはなりません。
死を覚悟してなお「よし、このまま堕落して生きよう」と、こう考える人も当然いるわけです。



以上を踏まえると、死を有難がる理由は何処にもないように思われます。
それはただ、我々から未来を奪い去ってしまうだけで、何も与えてくれはしません。価値ゼロです。
むしろ死は人生の目標をことごとく打ち壊してしまうという点で、人のやる気を損ないかねないとすら言いうるでしょう。
死を覚悟すると人生は豊かになるといったような文句はしばしば耳にし、一見聞こえがよいものですが、我々はそれを斬って捨てるべきです。

死を覚悟することで死の恐怖は克服可能である、と考える人もいると思います。
しかし、もし死を克服しようとするのであれば、我々はそれを有難がるよりも、むしろ無視するような生き方を模索したほうがいいかもしれません。

Anaemia99.png

一見死は我々にとって大変な損失をもたらす悪であるように感じられます。
ですが実際のところ、死それ自体は人にとって全く悪ではありません。
あくまでその悪さは我々がそれに見出しているにすぎず、死それ自体に悪いという性質はないのです。

例えば、死を一切怖がらない異星人がいるという状況を想定してみてください。
我々の基準からすれば一見信じがたいですが、しかし我々はそのような存在者を想定することは可能です。

このような想定が可能であるのは我々の価値基準が緩やかであることに起因します。
我々の価値基準は物理現象や自然法則、例えば酸素と水素が組み合わさって水になるといったような現象よりもずっと偶然的で、必然性は全くありません。
だから死の恐怖というのは、あくまで相対的なものであり、「判断力を持つ者ならば必ず死を恐れるはずである。」なんてことはないのです。

結局のところ、我々の感じる死の恐ろしさ、死の悪さは死それ自体にあるのではなく自らのうちにあります。
すなわち上記にも書いた通り、死の恐怖は我々の判断力が生み出しているのです。
よって、この心をどうにかすることによって死の恐怖は和らげたり、或いは完全に抹消することができます。



心をどうにかする方法には様々なものがありますが、その方法の一つとして「自殺する」という選択肢をとることが挙げられるでしょう。
今回はこの方法が死の恐怖を克服するうえで適切なものかどうかを簡単に考えてみます。

まず、自殺してしまえば死の恐怖が無くなるというのは自明でしょう。
なぜなら、生命を途絶えさせれば自らの心がなくなり、同時に恐怖の根本原因を断つことができるのですから。
人は一度死んでしまえば心が無くなってしまうので、死の恐怖をより長期にわたって抱くことはなくなります。
そういう点で、自殺する、という選択肢をとることはメリットが全くないというわけではありません。

ただ実際に、死の恐怖を断つために自殺するという選択肢をとるのは極めて難しいでしょう。
というか、死の恐怖を断つために自殺する人が実在するかというと、私はそうは思いません。
恐らくその目的で自殺した人はこれまでの人類に一人もいないでしょう。

例えば、生きている間に死の恐怖を断つことと死んで恐怖を断つことを天秤にかけてみてください。
常識的に考えれば、両者を比較して、前者が望ましいと感じる人は多いのではないでしょうか?
仮に後者が望ましいという人が万が一いたとしても、その人物は自己欺瞞におちいっていると私には感じられます。
つまり、そういう人物は他に自殺したい根本的な動機があるにもかかわらず、それと「死の恐怖を克服したい」という動機をすり替えているのではないでしょうか。

死の恐怖は自殺のサブ的な原因にはなるかもしれませんが、自殺の原因となるのは基本的には病気・老い・人間関係・貧困の苦しみなどといったものです。
これらの要因が一切ないにもかかわらず死ぬのが怖いから自殺したい!と言う人がいれば、そのひとは本心からそう思っていると言っていいのかもしれませんが、そういう人が実際にこの地球上に存在したことがあるとは、やはりにわかに信じがたいものです。
大体自殺しようとする動機に死の恐怖の克服を据えている人も、自分が幸福になってしまえば、死の恐怖も簡単に忘れ去ってしまうものですから。



以上を踏まえると、「死の恐怖を克服するために自殺する」という選択は現実的なものではなく、あくまで理論的なもの(実践的ではないもの)にすぎないと我々考えるべきでしょう。
すなわち死の恐怖を克服するために死ぬ、というのは単に口だけのことであって、現実に生きる我々とは無関係な全く空虚な価値判断にすぎません。
よって死の恐怖を克服する際には他の方法を模索したほうが、もっと言えば生きている間に死の恐怖を払しょくする方法を模索したほうが賢明であると私は考えます。

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