脳内交響曲

ある時は世界一陰鬱な絵画を生み出すことを目指すブログ。またある時は死・人生について考えるブログ。

01 2037

紹介

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こんにちは、又は初めまして。ネット界最果ての地、脳内交響曲へようこそ。
わたくし管理人のぶち丸は、地球という地獄界の住民です。
地獄界からこのブログはお届けします。

このブログは、私が「見ていると気分がふさぐような自作絵」や「聞きたくもないような話」などの暗いコンテンツを延々と載せていくスペースです。
何故そんな誰にも見向きもされないような創作を試みるのか、疑問に思う人もいるかもしれません。
もっと明るい、一般向けのものを作れば認められやすいし、お金儲けも出来て成功できるのではないか、などと思う人もいるのかもしれません。

私が一般受けしないコンテンツを作り続ける理由、それは余りにこの世界が陽の雰囲気に満ちているからです。
人間の多様性を重んじるならば、世の中には明るい人だけではなく、暗い人がいても別におかしくは無い筈。
しかし、現実には暗い人間は排斥され、虐げられ、陽気な人間に合わせることを強要されます。
そして生きていくうえで多大な困難、苦痛を経験することは避けられません。



別に私は明るい人間のことを否定はしません。
しかし、少しぐらいは陰気で、根暗な人間がいてもいいじゃないかと、そう思うのです。
そのため、このブログでは陽の雰囲気に押されないように、陰の雰囲気を世界に増すことを私は目指していきたい。
最終的に暗い人が出来るだけ生きやすいように世界を持って行ければなあ、と思います。
もしこの変人に興味がある方は、ぜひ最期(私の死)までお付き合いください。
何卒、よろしくお願いします。

また、此の記事の追記に初めて来た人に向けて、より詳細なブログの紹介を書いておきました。
「続きを読む」を押すと、このブログの歴史など色々読むことが出来ます。
読みとばしでも全く問題ないですが、このブログに関心がある奇特な方は是非読んでください。

ブログ紹介 脳内交響曲

22 2017

死後の世界を信じたほうが得なのか?

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我々は生きている間に死について思いを巡らせ、そのことによってしばしば悩みます。
例えば、病気などによって自らにどうしようもなく死が差し迫っているときや、身近な人が死んだりしたときは、死を有害視するのは当然のことでしょう。
或いは、自分が積み上げてきたものを無に帰してしまうがゆえに、死を有害視する人もいるかもしれません。

そして、死について思い悩むことは人生に支障をきたします。
上記の例に関して言えば、相当な努力が必要な目標を掲げている人が「どうせ死んでしまうのだ・・・」と、その目標を投げ出してしまうことが考えられるでしょう。
或いはまた、死が迫っている人が感じるであろう消滅の恐怖は計り知れないものがあるでしょう。
現に今健康な私ですら、死は恐ろしいですから。
死を恐れることによってもたらされる負担は、もしそれがないのであればそれに越したことはありません。

では、死を恐れないほうが得だからという理由で死後の世界を信じるのはありなのでしょうか。
死後の世界の存在を主張する人の中には、その理由で自らの主張を正当化する人がいます。
彼らの言い分は大まかにはこうです。

(死が消滅である場合)
死後の世界を信じている人(①)→生きている間に不安はない。そして死後に自分の過ちを知ることもない。よって幸福である。
死後の世界を信じていない人(②)→生きている間に不安にさいなまれる。そして死後に自分の正しさを知ることもない。よって不幸である。

(死が消滅ではない場合)
死後の世界を信じている人(③)→死後に自分の正しさを知る。おまけに生きている間に不安はない。よって幸福である。
死後の世界を信じていない人(④)→死後に自分の過ちに気づく。おまけに生きている間は不安にさいなまれる。よって不幸である。

(結論)
いずれにせよ、死後の世界を信じたほうが幸福である。

もし死に恐怖を感じないのだとしたら、その人は恐怖にさいなまれているよりは幸福であるのは確かでしょう。
しかし、この論証をそのまま鵜呑みにできるかというと、難しいものがあります。

まず一点、上記の論証では①のほうが②よりも優位であるとは、必ずしも言えないと思うのです。
確かに①の人は不安を感じているわけではありません。
その点で、①の人は不幸ではないように見えるのですが、やはりその人も消滅してしまうのだとしたら、すごく不幸であるように感じられるのですよね。
死んで消滅するならば、どっちにしろマイナスじゃんか、と。
むしろ自分の置かれている状況を正しく認識できていないのだから、その点ではある意味、②よりも①のほうがより不幸といえるかもしれません。

そしてもう一点、③のほうが④よりも上記の論証においては優位とされていますが、それもどうも私には疑わしいのです。
仮に死後の世界があったとして、そこがあることってそんなにいいことなんでしょうか?
死後の世界を信じている人は、「死後の世界は自分にとって善い世界である」と信じているがゆえに安心を感じているのでしょう。
もし死後の世界が地獄だったら、安心を感じることはできませんから。
しかし、それがどうも楽観的過ぎて、自分にはうさん臭く思えてしまうんですよね。
実際死んでみたら、死後の世界がこんなに酷い場所だったなんて!と思うこともありうるのではないでしょうか。
(死後の世界を素晴らしいと思ったほうが得なのだから、素晴らしいと思えばいいと言われたらそれまでですが。)

まあとはいえ、上でも述べたように、不安というのは一般的に見れば無いに越したことはないわけで、そういう意味で死後の世界を信じること、そしてその世界が素晴らしい世界であると信じることには一定の価値はあるのでしょうね。
しかし確かに理屈ではわかるんだけど、本気で死後の世界を信じられるかというと「う~ん・・・」という感じですね。個人的には。

死後の世界 価値

07 2016
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お久しぶりです、ぶち丸です。
凄い間が開きましたが、たかだか数か月という期間は私にとってほんの一瞬に過ぎないので、何食わぬ顔で更新させていただきます。
まあ、最早このブログをマトモに読んでる人はいないでしょうし、別に更新されないからと言って誰にも支障はないですから、ノープロブレムですね。

さて、こんだけ間が開いたのだから絵を沢山載せることを期待している人もいるかもしれません。
(実際にはいないだろうけど、いると仮定して話を進めます。)

しかし生憎ですが、ここ最近私は殆ど絵を描いておりませんでした。
ついさっき上の絵を数時間かけて仕上げたのが、ここ数か月における唯一の絵画制作です。
もし期待している人がいたら、大変申し訳ない。

では、一体私はこの長い空白期間に何をしていたのか。
まあ知りたい人はいないと思うけど、一応言っておくと、様々な情報を脳にインプットすることに専念しておりました。
すなわち、主に興味のある本を読み漁ったり、たまに音楽を聴き漁ったり、たまにゲームをしたり・・・と言ったことに時間を費やしていたのです。

最も、インプットと言うと何だか聞こえはいいですが、実際はノンベンダラリとしていただけです。
何と私は一切非生産的に、ここ数か月の期間を生きたしまってのです。
ああ、建前上は創作者であるにもかかわらず何ということでしょう・・・。

もしここ数か月の私を誰かが眺めていたとしたら、その人物が私を落伍者と認定するのは必至です。
そのぐらい主観的に見ても客観的に見てもどうしようもない人生を送っていました。
(最もそう言う人生を送っていたというのは、別にここ数か月に限らずずっとそうなのですが)

で、これじゃいかん!ということでふと絵を描くことを思い立ち(思い出し?)、サッと絵を描いてこの度更新に踏み切ったわけです。
ずっと描いてなかったので上手く描けるかなあ・・・と些か心配でしたが、実際描き出してみるとテクニックを失念しているということも無く、間が開いてても、根本的に勘が鈍ってるということはありませんでしたね。
まあ、そのあたりはチョットホッとしました。



で・・・何が言いたいかと言うと、要するに、ここ最近絵を描かずにズルズル来てしまったわけですね。
今思い返すと、別にお金になるわけでもなく、大して称賛されることも無いのに、「ああ~描いておけばよかった~」と結構後悔してます。
やっぱなんだかんだ言って(間が開いていたとはいえ)自分がずっと続けてきたことですし、絵を描くことが嫌になったというわけでは無いのでしょう。
最も好きで描いているかというとそうでもなくて、実際のところは、自分でもよく分からない感情に駆られて描いているという感じなんですけどね。

まあとはいえ、ノンベンダラリと過ごしていたと言っても、必ずしも無為に時間を過ごしていたわけではないのです。
何も完全に人生をあきらめて、主体性を放棄して、いい加減に遊びほうけていたわけではありません。
いくら堕落していたからと言っても、絵を描かずに私が本を読んでいたのには理由がちゃんとあるのです。
基本的に私は無駄だと自分が感じるようなことをして時間を潰したりはしません。
(まあ人生全体がしばしば無駄に感じられますがそれはさておき。)

では、じゃあどういう目的があったかと言うと、それはまあ大体振り返ってみて自己分析してみればはっきりしていて、要するに「不安の回避」です。

当たり前のことですが、生きていると不安なことって一杯ありますよねえ。
将来のこととか、何で生きてるんだろうとか、死んだらどうなるんだろうとか、人間関係がつらいとか。
ハッキリ言って自分の人生の状況は現在中々酷いもので、かなり参っております。
私も普段は平静を装っていますが、実際のところかなり精神的に不安定で、色んなことが怖くて怖くて仕方ないのです。
そこでどうやって解決しようか?ということで、私の場合その解決策を本に求めたわけです。

まあここ数か月はそんな感じで、本を読んでばっかりの生活を送っていましたね。
勿論起きている間ぶっ通しでずっと読んでいたか?というと勿論そんなことは無いんですが。
適度に休みを取ったり(=怠けたり)する時間を挟みつつ、自分で考えることと並行して読書をしていたという感じですね。

私の場合、問題意識がまず最初に会って読書にのめりこんだので、読んで終わり、という風にはもちろん行きません。
読めども読めども次から次へと謎が湧きだし、まるで無限回廊を彷徨っているかのような気分です。
そして私は何もわかっていなかったんだ・・・という感覚に日々打ちのめされています。
正直抜け出したいところですが、考えずにはいられないというのが人生の問題の難しいところです。



さて、ここでじゃあどの本を読んだか?と言うことは語っておくべきなのかもしれませんが、ハッキリ言って面倒くさいし何の得も無いので、この記事でイチイチ取り上げていくのはやめておきます。
とはいえ獲得した知識はここで今後ひけらかしたりはするかもしれません。
今まで何度も「覚え書き」というタイトルで、どうでもいい知識を羅列した記事を書いてきたりしましたが、今度何か本から知識を使う際は、私が抱えている個人的な問題に関するものに限定するつもりです。
まあそれに関しては機会があればと言うことで。

で、あとはそうですね、今後についてですが、やはり今迄通り今後もこのブログは不定期更新になりそうですね。
まだ読み終わってない本が山のようにあったりしますし、基本的に私は予定をたてて行動することが出来ないダメ人間なので、こうしよう!と思っても絶対そう言う風には動かないのです。
(そして、この私の性格は作品にも如実に反映されています)

なのでまあ今後こうしよう!という具体的な目標は決めずに生きていこうと思います。
今は、上でも書きましたが、精神的に不安定なので、小難しいことは考えたくないのです。
いい加減で、もし私に何かしら期待している人がいたらホントにスイマセン。

まあというわけで、私は落伍者として今後も気ままに自分のペースで、絵を描いたり遊んだり好き勝手やっていきます。
流石に何か月も絵を描かないというのは、逆に描かないことによって精神が不安定になるからもうやめにしたいけど、やはり未来に関しては何ともいえないです。
少なくとも死なない限り更新はやめないので、まあ気長に待ってください。
それでは、また。

近況報告

21 2016

デスメタル/メロデスの名曲集

ネット上にある気に入った曲の動画をまとめた記事です。
今回はデスメタル/メロディックデスメタル編。

Morbid Angel - Maze of Torment(1989、Album:Altars of Madness)



デスメタル メロディックデスメタル

30 2016

死は幸福でありうるか?

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は善い事であると述べる人々をたまにネットで見かけます。
「我々は生きている限り、様々な負担を背負わなければならない。生は悪である。そしては我々からその負担を取り除いてくれる救済である。」
人によって意見の多少の差はあれ、このように考えて、彼らはが救済であると考えるのでしょう。
しかし私は、が救済であるという意見には少々首をかしげたくなります。

私もにいい面がないとは言いません。
例えば現実でつらい目にあっている人がを願うことは、一般的に考えれば何らおかしいことではないでしょう。
我々は生きている間に様々なつらい経験をします。
社会で生きる限り避けられない人間関係、衣食住を際限なく用意し続けること、働くこと・・・これらはしばしば人を死に追いやるには十分すぎるものです。

しかし、一方で私には「死は一切の価値をもたない事態なのではないか」という直観もあるのです。
すなわち、死は良いとか悪いとかいった価値を一切持たない出来事であるとも考えられるのではないでしょうか。

我々が、通常幸福であると考える状態は生きている間の状態です。
生きて様々な快楽を経験したり、不快感を経験するからこそ、我々は特定の出来事を良いとか悪いとか判断します。
しかし人は死ねば(恐らく)なにも経験することができません。
人の死後が一切の無であるとすれば、それはなんの快感ももたらさないのです。
にもかかわらず、なぜ我々は死を幸福であると断定することができるのでしょうか?

このような点から、死が善であるという主張は問題があるように思うのです。
もし我々が「死は善である」と主張するならば、(苦痛からの解放がもたらす)快感以外の理由によって死の良さを示す必要があるでしょう。
しかし、それをどのように示せばよいかは私には今のところ分かりません。

幸福

12 2016

死とは何か、人は死ぬとどうなるのか

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普段は忘却しているものの、は誰にとっても切実な問題であり、第一級の関心ごとであるかと思います。
では、人はぬとどうなってしまうのでしょうか。
は我々にとって恐ろしいことなのでしょうか。

こういった問いに答える前にまず、我々にはしておかねばならないことがあります。
それは、がどういう事態であるのかについて定義をすることです。
は経験不可能であるがゆえに(或いは、まだ誰もんでいないために)、人によってさまざまに解釈が分かれます。
そのため、仮に上記のような問いに答える場合、我々は問いに答える前に、まず死の意味を明確に定義しておかなければ、議論になりません。
よって、本記事では「死がどういった事態であるのか」について、私なりに答えを出してみようと思います。



さて、「死はどういった事態であるのか」という問いに対して、考えられる回答をまずは提示しておきましょう。
この問いに対する回答は、大きく二種類に分けることが出来ます。
一つは(A)「人は死によって主観的な体験を失わない」とするもの、そしてもう一つは(B)「人は死によって一切の主観的な体験を不可逆的に失う」とするものの二つです。
おそらく、すべての死の解釈は、必ず(A)か(B)のうちのどちらかに含まれるでしょう。

これら両者のうち、どちらが正しいと考えるかは、個人の死生観によるところが大きいです。
例えば、死後の復活を信じる人や輪廻転生を信じる人、或いは霊魂の存在を信じる人などは、(A)を正しいと見做すでしょう。
或いは、(A)と(B)のいずれも支持せず、どっちつかずの立場を貫く人もいるかもしれません。

死後の世界があるとする解釈のそれぞれを細かく検討すると、記事の長さが長大になるため、この点について私は本記事で語ることはしません。
(興味がある人は、この点について論じられている他サイトをご覧ください。)
ただ、私は死の価値を見定める上で、(B)を正しいものとするのが妥当だと思います。

この私の判断を動機づけているのは、我々の認識が決して恒常的なものではないという事実です。
仮に我々が過去の全期間において主観的経験を保持し続けてきたのであれば、今後も同様の状態が続くと考えても、左程おかしくはないでしょう。
しかし、実際には我々の記憶はある一定の期間以上、すなわち生まれる前までは決して遡ることが出来ませんし、また我々は深い眠りについているときは一切何も経験することが出来ません。
この事実は、必ずしも死後に何もないことを証明するわけではありませんが、(B)の見解に有利に働くと思います。
少なくとも、我々が死後の世界を信じないことに一定の合理性は与えるでしょう。

もちろん、死後には何もないということを私が完全に証明することはできないのですが、上記の事実があることによって、死後の世界を信じる者と信じない者は決して対等ではないのです。
死後の世界の存在を主張する者は、それを否定する者とは違って具体的に証拠を提示しなければなりません。
そして、その証拠は何もないのだから、さしあたり(A)の解釈ではなく、(B)の解釈を正しいと見做すのが妥当でしょう。



また、死を定義する上でもう一つ前提としてつけ加えておきたいことは、「死者自身は死体とは同一ではない」ということです。
人が死ぬとその後には通常(死体が木っ端微塵にならない限り)死体が残り、それは往々にして生きている人物から配慮の対象とされます。
ですが、実際のところ、それは単なる人間以外の物体に過ぎず、死者自身ではありません。
死体は死者自身と外見は似通っていますが、死体は何ら普通の人のように価値観を有していませんし、また仮にある人の死体を傷つけたとしても、それは単に物体を破損させることにすぎず、死体はなんら利害が帰属する対象とはなりません。
そのため、我々は死体を死者自身と見做すべきではないでしょう。

以上を踏まえると、死の定義は次のようになります。
即ち、死とは「主観的には体験を不可逆に失うこと、そして客観的にはこの世界から存在しなくなること」です。
死について論じるうえで、このような定義を採用することが妥当だと私は考えます。

死は多くの場合、死後の世界が存在するという立場と死後の世界は存在しないという立場の対立という図式で論じられてきました。
しかし死を消滅ととらえ、そのうえでそれが悪であるかどうかを議論するほうが、少なくとも正しい知識をとらえるうえでは妥当な選択ではないでしょうか。



(補足)死は経験出来ないのだから、それについて何も語ることはできないのではないか、と考える人がいるかもしれません。
しかし、経験できるかどうかは、事態について語るうえで必ずしも必要ではないでしょう。
なぜなら、経験があるときに経験がないことについて語ることは、普通の人であれば誰だって可能だからです。
我々は一切経験のない睡眠や、誕生前の非存在について語ることができます。
この点を踏まえれば、死後の非存在が経験できないからと言って、それについて語ることはできない、と結論付けるのは明らかに誤りです。

死後の世界

11 2016

ブログの素材を作りました

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「ブログのデザインが何だか寂しいなあ・・・」と不意に感じたので、素材を自作してみました。
サイドバーに幾つか貼り付けておいたので、気付いた方もいるでしょうか。

ご覧いただくと分かる通り、変な文字や模様なんかが入っていますね。
最近オカルト趣味に傾倒しているのもあって、怪しい雰囲気のデザインをするよう心がけてみた感じです。
絵は描いてもデザインはやったことなかったので、作る前は若干不安でしたが、やってみると案外出来上がるものですね。
色々デザインを勉強しながら、頭をひねって試行錯誤してたら、知らないうちに完成してました。
個人的にはどれも中々気に入っているんですが、いかがでしょうか。

ちなみに「小さくて見にくい!」と言う方のために拡大できるようにしておきましたんで、よかったら画像をクリックしてみて下さい。
最も拡大すると雑さが浮き彫りになって、恐縮なんですけどね・・・。

(2016/06/16追記)
結局素材を使うことはやめにしました。
しかしお蔵入りさせるのも何だかもったいないので、それらの一部を追記で見れるようにしておきます。
あと、過去のお蔵入りにした作品も一挙にまとめて載せておくので、よかったらご覧ください。

素材 デザイン